「親鸞聖人の他力思想」1月(中期)

このような心が生じますと、自分は阿弥陀仏によって共に永遠に生かされているという自覚が湧いてきます。

言葉にはし難いような、大きな喜びがここに生じてくるのです。

この心が信心歓喜です。

信じた者にとって、ここで何が起こっているのかというと、

「自分は阿弥陀仏によって無限に生かされている」

それを喜ぶ心が、ここで起こっているのです。

悲しみの心は、自分独りの内に閉じこもる心です。

それが、悲しみの特徴だともいえます。

それに対して、喜びの心は分かち合うものです。

それが、喜ぶ心の特徴です。

たとえば、一般に結婚をする人は、その結婚することみんなに披露し、共に喜んでもらうことによって、さらにその喜びは大きくなります。

それは、日常のささいなことであっても、嬉しいことがあった場合、それを語り共に喜んでくれる人がいれば、しかもその数が多いほど喜びは大きくなります。

そうしますと、信心歓喜とはその信心が喜びとして心に現れているのですから、必然的にこの信心の喜び他の人々に伝えて分かち合い、共に喜びたいという心が出てくることになります。

これが廻向です。

ですから、礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向という五つの行為が、浄土教の全て、浄土真宗の教えの全てということになります。

さて、ここで私たちの日常生活を尋ねてみることにします。

日頃、さまざまな場面で私たちは阿弥陀仏に手を合わせ、南無阿弥陀仏を称えているのですが、ではいったいそこではどのような心が生まれているでしょうか。

大半の場合、ほとんどの人々の正直な思いとしては、そこにはわきあがるような感激はなく、ただ頭を下げているだけということになるようです。

けれども、阿弥陀仏に救われていると感じることもなく、また救ってほしいと願うこともない、それが偽らざる私たちの心だということになりますと、阿弥陀仏と私との関係は、外見的には礼拝し、讃嘆し、作願するという宗教的行為を成していながら、その内面では何の感動もしていないし、何ら関心も持っていないし、無気力であると見られても仕方ありません。

このように、自分の宗教に対して積極的に関わろうとする姿が見られないとすると、そのような信者の姿をオリンパス光学工業という会社が、我が社に勤務する若者が

「あのような姿になってはならない」

ということで

「他力本願から抜け出そう」

という広告を出したのだとすると、これは本願寺教団及びその教団に属する全ての人々にとって、第三者からの重要な警告だとして深刻に受け止めるべき必要が生じてきます。