次は親鸞聖人ですが、『教行信証』の
「行巻」に、
この行信に帰命すれば、摂取して捨てたまわず。
故に阿弥陀仏と名づけたてまつる。
これを他力という。
と述べておられます。
「この行信に帰命すれば」
の
「行信」
とは、南無阿弥陀仏のことです。
ここで私たちを救おうとしている阿弥陀仏の心と、阿弥陀仏のはたらきに
「帰命すれば」
という私の心が問題になります。
「すれば」
とは、
「したならば」
という仮定の意味ではなく、
「帰命するそのときに」
という意味です。
阿弥陀仏のはたらきである
「行」
と
「信」
に帰命するそのときに、阿弥陀仏はその人を摂取して捨てたまわない。
その仏さまを、阿弥陀仏と名づけるといわれるのです。
したがって、摂取するとは、帰命しているその人を救う力のことで、それが
「他力」
だと説いておられるのです。
もう一度いいますと、一般に私たちは
「他力」
を問題にするとき、自分とは関係なく、向こう側に仏さまの力をおいて眺めていますが、親鸞聖人の他力思想とは決してそのようなものではありません。
常に、私と阿弥陀仏の関係を述べておられます。
阿弥陀仏に帰命するとき、帰命しているその人を救われるのが阿弥陀仏です。
したがって、私が阿弥陀仏を信じるということと、阿弥陀仏が私を摂取するということがそのまま重なる訳で、この道理を離れては、浄土真宗は成り立ちません。
言い換えると、阿弥陀仏に帰命するその人を救われる仏を、阿弥陀仏と呼ぶのであって、その衆生を救う力をまさしく
「他力」
というのです。
そこで親鸞聖人は、同じく
『教行信証』
「行巻」
に
他力というは、如来の本願力なり。
と、説いておられます。
衆生を救っている力、それが
「他力」
なのですが、その他力こそが如来の本願力であると述べておられるのです。