『仏、弥勒に語りたまはく。
「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せむことあらむ。
まさに知るべし。
この人は大利を得とす。
即ちこれ無上の功徳を具足するなり」
と。
』
この文中、
「それかの仏の名号」
から
「乃至一念せむことあらむ」
までの意は、本願成就の文に説かれる
「諸有衆生、その名号を聞きて信心歓喜せむこと乃至一念せむ」
の文意と、思想的にはほぼ一致しているとみなさなければなりません。
本願成就文に説かれる教えこそ、釈尊が弥勒菩薩に伝達しようとしておられる法の真理だからです。
ところが、親鸞聖人はこの二文の
「一念」
に関して、前者を行の一念、後者を信の一念ととらえられます。
すなわち、前者に関しては
「衆生は阿弥陀仏の名号を称えて往生せよという法を聞き信じて、歓喜踊躍して一声称名念仏するであろう」
と解釈され、この一念から
「一声の称名」
の義を導きだされ、また後者に関しては
「この名号の功徳を聞いた瞬間、すべての人々は、必ず信心歓喜という一心を発す」
と、この一念にし
「一心の信」
の義をみられます。
しかしながら、この名号を聞信する一念からは、自ずから念仏が称えられるはずですから、これら二文の思想は、全体としてはほぼ一致しています。
けれども附属の文と成就文は、一方は弥陀法の伝達を、他方は第十八願の成就を証明する箇所で、それぞれに重要な独自の義があるとみなければなりません。
では、これらの思想の根本的な違いはどこにあるのでしょうか。
その明らかな違いは対告衆です。
附属の文では、釈尊は弥勒菩薩に対して語られており、成就文では阿難に告げておられます。
ところが、親鸞聖人はこの成就文を引用するにあたって、その
「仏告阿難」
の語を省略されます。
このことから
『教行信証』
の成就文においては、阿難が重要なのではなく、第十八願に誓われている阿弥陀仏の行と信、南無阿弥陀仏の真実功徳を、衆生が阿弥陀仏から、いかに直接聞くかが問われると共に、衆生の心に生じる信心歓喜という清浄なる一心が、この成就文の最も重要な思想となっているとみることができます。