「親鸞聖人にみる十念と一念」7月(中期)

すでに十念について考察する中で明らかになったように、阿弥陀仏は本願に

「南無阿弥陀仏を称える衆生を浄土に往生せしめる」

と誓われていました。

なぜ南無阿弥陀仏を称えるだけで、衆生は浄土に往生するのでしょうか。

本願の十念は、阿弥陀仏の

「念仏せよ、あなたを救う」

という招喚の声だからで、しかもその念仏は単なる阿弥陀仏の声ではなく、

「南無阿弥陀仏」

がそのまま阿弥陀仏の真実なる大悲心の躍動の姿そのものだからです。

衆生が南無阿弥陀仏を称えているそのことが、まさに虚仮不実の衆生の心を破る、阿弥陀仏の満足大悲円融無碍の信楽のはたらきであり、その信楽が衆生の心に満ち満ちているという事態だったのです。

このようにみれば、阿弥陀仏と衆生の接点は、ただ南無阿弥陀仏のみで、その念仏が衆生を往生せしめるのです。

親鸞聖人はこの点を

「本願の名号は正定の業なり」

と述べられ、第十八願の十念が、まさしく衆生往生の唯一の業因だとし、その念仏がそのまま、衆生を摂取する阿弥陀仏の大悲心であり、この信楽を衆生が獲得する時、衆生の往生は決定するとみられます。

それ故にまた、

「至心信楽の願を因とする」

と説かれるのです。

では、どのようにすれば、真実清浄なる弥陀の信楽を、不実邪偽の衆生が獲得することができるのでしょうか。

私が一声、南無阿弥陀仏と称えます。

この一声の念仏を親鸞聖人は

「行の一念」

ととらえられます。

そしてこの一念について、

「行の一念と言ふは、謂く称名の遍数について、選択易行の至極を顕開する」

と述べられます。

「称名の遍数」

とは、称名の数のことで、遍とはあまねくゆきわたるの意味ですから、これはすべての称名という意味になります。

私がどのような場で、いつどんな心で称える念仏も、さらには誰が称えている一声の念仏もということで、その一声が

「選択易行の至極」

だとされるのです。

この

「易行の至極」

は、単に衆生の行為の易行性をいっているのではありません。

念仏を称えるよりも易しい行は、他にもありうるからです。

したがってこの易行性は、仏果に至る行法という一点を見落としてならないといえます。

行為の易行性を含みながら、南無阿弥陀仏はこの念仏を称える衆生を、速やかに容易に仏果に至らしめる究極の行なのです。

この無限の功徳を有する行の極致を、阿弥陀仏は本願に選び取って衆生に廻施されました。

これが

「選択易行の至極を顕開す」

の意味です。

そして一声の称名が、このように選択易行の至極の功徳を有するからこそ、釈尊が

『無量寿経』

を説き終えるにあたり、弥勒菩薩にこの

「行の一念」

を、次のように附属されたのです。