「親鸞聖人にみる十念と一念」7月(前期)

 至心・信楽・欲生とはどのような心でしょうか。

字の意味から窺えば、至心は真実誠種の心、信楽はその真実なるさとりの喜びの心、欲生はその覚知の心が衆生に向かう大悲廻向の心です。

したがって、この真実清浄な一心は、衆生のどのような煩悩に満ちた疑蓋(ぎがい/うたがってなかなか信じないこと)にも雑わることがありません。

では衆生はなぜ迷うのでしょうか。

無始より今日まで、その心は穢悪汚染、虚仮諂偽であって、一片の真実清浄な心もなかったからです。

そのため、法の道理として、如来の真実清浄な信楽を知ることができず、仏になろうと欲する心がまったく生じなかったのです。

だからこそ、衆生はこれまでにずっと迷い続けてきたのだといえます。

ではなぜ阿弥陀如来は、至心・信楽・欲生の三心を成就されたのでしょうか。

衆生には真実心がありません。

そこで、弥陀は至心を成就され、その真実なる誠の心の種を衆生に施されたのです。

同様に衆生はさとりの喜びを知り得ません。

それ故に弥陀は、如来のさとりの喜び、信楽を成就し衆生に廻施されるのです。

さらに衆生には、仏に成ろうとする心がありません。

だからこそ弥陀は、大悲廻向の欲生心を成就し、衆生の心に徹入して、浄土に来れと招喚され、衆生の心を浄土に向かわしめています。

そのためには、どうしても三心が成就されなければならなかったのです。

この衆生を摂取するために成就された弥陀の三心は、本来的に阿弥陀仏の悟りの心、信楽いう一心にほかなりません。

この疑蓋無雑の一心が衆生の心に廻施されているのです。

ところが、すでにその如来の信楽が、いかに衆生の心に廻施されているとしても、煩悩に満ち疑蓋のみの衆生の心では、その信楽を知ることは、絶対にあり得ません。

知り得ないから迷い続けているのです。

では一体、阿弥陀仏のこの衆生を救おうとする利他真実の一心は、どのようにして衆生の心に顕彰するのでしょうか。

この点について親鸞聖人は

「至心は即ち是れ至徳の尊号をその体とするなり。

利他廻向の至心をもって信楽の体とするなり。

真実の信楽をもって欲生の体とするなり」

と述べられます。

すなわち、衆生を摂取する阿弥陀仏の至心信楽欲生の三心は、そのま南無阿弥陀仏という大悲心となって、衆生の心に廻施されていると見られるのです。