「親鸞聖人にみる十念と一念」6月(後期)

このときなぜ、

「十念」

「乃至」

の言葉がそえて誓われているのでしょうか。

阿弥陀仏が衆生に対して、

「もし一心に念仏を称えるものを救う」

と誓っていれば、衆生は必ずはからいの心を持ちます。

その念仏は何回称えればよいのか。

一声でよいのか、多声でなければならないのか。

十分に修行を積んだものが救われるのか。

それとも愚かなものが、ほんの少し念仏を称えるだけでも救われるのか。

さらには、いつ、どのような場所で、どのような心持ちで称えればよいかなどと、いろいろなことを迷い悩んでしまいます。

それ故に、

「乃至」

という阿弥陀仏の法が

「十念」

という名号にそえて誓われているのは、まさにそのような衆生のはからいの一切を否定するためだと、親鸞聖人はみられます。

そして善導大師によって説かれている第十八願の文を

『教行信証』

で、

「わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じてはもし生まれずば正覚を取らじと。

これ即ちこれ往生を願ずる行人、命終わらむと欲する時、願力摂して往生を得しむ」

と読まれ、さらにその本願の意を

「弥陀の本弘誓は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定で往生を得しむ」

と解釈されます。

そしてこの

「称我名字」

については、

『尊号真像銘文』で、

「われ仏になれらむに、わがなをとなへられむとなり」

と説明されます。

これよりみれば第十八願の

「十念」

は、衆生が称える十声の称名でありながら、その南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が衆生に

「称えよ」

と願われ、称えせしめ、称える衆生を願力に乗じて弥陀の浄土に往生せしめている、阿弥陀仏のはたらき、すなわち大願業力であり、大行であることは動かしえません。

この点を親鸞聖人は、『末灯鈔』で

「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたる」

と説かれます。

そうすると、大十八願の選択本願の意は

「ただ念仏せよ、あなたを救う」

という一言に集約されてしまいます。

この

「乃至十念」

が、法然聖人によって明らかにされた念仏往生の道です。

ところで大十八願には

「乃至十念」

のみが誓われているのではありません。

「至心信楽欲生」

の三心もまた本願の誓いです。

では、その三心と十念はどのように関係するのでしょうか。

親鸞聖人の思想において、

「十念」

は阿弥陀仏の言葉でした。

とすれば、

「三心」

もまた当然、阿弥陀仏の心だと解されます。

この十念については、すでに述べたように、

『教行信証』

では、親鸞聖人自身の言葉による解釈はみられません。

けれども、三心に関しては、親鸞聖人自身その心の根源を、非常に深く論述され、浄土真宗の信心の根本が明かされます。