第十八願の文を親鸞聖人は、
「心を至し信楽して我が国に生まれむと欲ふて乃至十念せん…」
と読まれます。
主著
『教行信証』
の中には、親鸞聖人による十念の解釈はありませんが、和語聖教によれば、三カ所に
「乃至十念」
の解釈が見られます。
(1)
「乃至十念」
とまふすは、如来のちかひのとなえむことをすすめたまふに、遍数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。
(尊号真像銘文)
(2)
「乃至十念」
とちかひたまへり。
すでに十念とちかひたまへるにてしるべし。
一念にかぎらずといふことを、いはんや乃至とちかひたまへり。
称名の遍数さだまらずといふことを。
この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり。
(一念多念文意)
(3)
「乃至十念若不生者不取正覚」
といふは、選択本願の文なり。
この文のこころは、乃至十念のちかひの名号をとなへん人、もしわがくににむまれずば仏にならじとちかひたまへるなり。
乃至はかみしも、おほきすくなき、ちかきとをき、ひさしき、みなおさむることばなり。
多念にこころをとどめ、一念にとどまるこころをやめんがために、未来の衆生をあはれみて、法藏菩薩かねて願じまします御ちかひなり(唯信鈔文意)
「乃至十念」
は、法藏菩薩の選択本願であって、この本願において法藏菩薩は、十方の諸仏国土において、迷い続けている未来の衆生を哀れみ、その一切の衆生を摂取と、我が浄土に往生せしめるために、往生の業因としての名号、南無阿弥陀仏を成就し、この名号を称えることが、往生のための唯一の易往易行の道であることをあらわし、大慈大悲のきわまりないことをお示しになっているとされます。
しかもこの本願はすでに成就されているのであるから、この
「乃至十念」
は、いまここにおいて、阿弥陀仏が私たち衆生に対して、如来の誓いの名号を称えよとお勧めになっている、阿弥陀仏からの呼び声だと解されています。