「親鸞聖人にみる十念と一念」6月(前期)

 親鸞聖人の思想の中心は、念仏と信心にあります。

それは、念仏と信心を論じれば、親鸞聖人の浄土往生の道はほぼ語れるのですが、もし念仏と信心の思想を論じなければ、親鸞聖人における仏道は何も明らかにならないからです。

この往因思想において、親鸞聖人がことに重視されたのが

『無量寿経』

の十念と一念です。

この語は

『無量寿経』

の中では、本願の第十八願文、本願成就文、下輩段、それに弥勒付属の文に出てきます。

ただしこの中、下輩段の十念と一念には親鸞聖人は関心を示されません。

そこでここでは、本願文の十念、成就文の一念、それに弥勒付属の文の一念についての親鸞聖人の思想を問題にしていくことにします。

 いうまでもなく、この十念と一念は、

『無量寿経』

においても、特に重要な思想です。

『無量寿経』

の中心は阿弥陀仏の本願にあり、なかでも阿弥陀仏が一切の衆生をわが浄土に往生せしめようと誓う、往因思想にありますが、その本願こそ、王本願と呼ばれる第十八願であり、そこに誓われている衆生の往因が

「十念」

だからです。

しかもこの本願の成就が、釈尊によって明かされる本願成就の文において、衆生はその

「一念」

の発起によって往生すると説かれます。

そしてさらに、この経の結びにおいて、この経典の中心思想が、釈尊から弥勒菩薩に付属されますが、その付属された教法こそ

「一念」

にほかなりません。

このように第十八願の十念、成就文と付属の文の一念は、

『無量寿経』

において衆生往因の根本思想となっています。

それであれば、この三カ所にみられる十念と一念は、当然のこととして、すべて同一思想でなければなりません。

なぜなら、阿弥陀仏が本願に誓っている

「十念」

によって、衆生は往生します。

ところで釈尊は、この本願の十念の意を受けて、衆生に

「一念」

を発起すれば往生すると説かれます。

そしてこの

「一念」

を弥勒に付属しておられるからです。

この場合、数字の十と一の相違は、それほど大きな問題にはなりません。

本願に

「乃至十念」

と、少なくとも十念を相続せよと誓われてはいますが、釈尊によって、最少一念でもよいとされているからで、要はその

「念」

とは何かが問題となります。

『無量寿経』

においては、この念の言語は梵語のcitta で、三カ所とも阿弥陀仏の名号を聞いて、弥陀の浄土に生まれたいとの願いを発起する心の意です。

漢訳経典では、この

「念」

の意味が非常に不明瞭で、古来この解釈をめぐって、種々の論議をよんできましたが、善導大師によってこの念が

「称名」

と解釈され、ここに一つの結論を得ました。

法然聖人はこの善導大師の意を受けておられます。

したがって、十念と一念は、

『無量寿経』

ではすべて

「願生心」

であり、善導・法然浄土教では

「称名」

の意で統一されていますので、ここには何ら問題は生じていません。

ところが、親鸞聖人はそうではありません。

第十八願の十念を十声の

「称名」

と解されながら、成就文の一念を

「願生心」

の意で、信心が決定する瞬間と解され、しかも付属の一念については、また一声の

「称名」

と解釈しておられます。

法然聖人の教えを受けながら、なぜ親鸞聖人においてこのような思想が成り立ったのでしょうか。

はたして、親鸞聖人の思想は、

『無量寿経』

や善導大師・法然聖人の教えに矛盾していないといえるでしょうか。