「親鸞聖人の他力思想」5月(後期)

「私たちがこの世に住んでいる限り、最終的にはどうしようもない姿になってしまいます。

この事実は、動かすことのできない真理です。

そして、そのどうしようもない者に、もし

「救い」

があるとすれば、それはやはり無条件で阿弥陀仏の本願力がこの者にはたらかなければなりません。

 そして、この者がその大きな力に摂取されない限り救いはありません。

だからこそ、その教えを私たちは今、必死に求める必要があるのだといえます。

 現代の人びとは、宗教に対する関心が希薄です。

ましてや仏教、そして浄土真宗の教えにほとんど関心を寄せてはいません。

その関心を持っていない人に対して

「何もしなくても救います」

と説いても

「ああ、そうなんですか」

で終わってしまうと思われます。

それ故、その無関心な人が臨終に阿弥陀仏に救われることは絶対にあり得ないのです。

 だとすれば、やはりなぜ宗教に関心を持たないことが間違っているのか、なぜ仏教でなければならないのか、その中でなぜ浄土真宗なのか、ということを本当の意味で問い続け、求め続けなくてはなりません。

この求めがなければ、浄土真宗は宗教でなくなると思います。

 そういうことからしますと、私たちの教えは、一心の祈りによる救いでないことは明白です。

けれども

「そのような祈りは無意味だ」

といっても救われません。

祈っても救われない、その祈る心が破れて初めてこの私を摂取する阿弥陀仏の本願に出遇うのです。

ですから、その前に、祈らざるを得ない心になっている自分がいる必要があります。

そして、その必死の祈りの中に救いがないのだということに気付くことによって、初めて祈ることを必要としない宗教に出遇うことになるのです。

 そのような意味で、浄土真宗は非常に難しい宗教だといわねばなりません。

祈りを必要としないからです。

だからこそ、その意味を一生懸命に聞き続け、本願を求め、念仏の真実を聞く。

その求めそのものをなくさないことが、浄土真宗においていちばん大切なことになります。

そして、その求めの中で、初めて積極的にその教えを他に伝える努力が生まれると思います。

ですから、聞くという努力と同時に、他に伝えるという努力もしなければならないのです。

その全体が他力の思想だとしますと、他力本願は非常に積極的で力強く、世に生きる力を示す教えだということになります。

それを、自分とは関係なしに

「ああ、救ってもらえるのだ」

というふうに考えてしまいますと、結局、無気力・無関心・無感動な浄土真宗の信者の姿になってしまうのではないでしょうか。

そういった意味で、親鸞聖人の他力思想を、もう一度考えていくことが大切だといえます。