『報恩講 親鸞さまに遇えてよかった』(前期) 

 毎年、いまの時期になると、宗祖親鸞聖人に対する報恩謝徳のために営まれる「報恩講」が浄土真宗の各お寺で勤まります。

 この法要は、浄土真宗のご門徒が一年で一番大切にしてきた仏事だといえます。

 改めて「報恩講とは何か」と申しますと、『報恩』には文字通り恩に報いるという意味があります。

私たちが生きていくためには、親の恩や師の恩、家族や親友の恩などいろんな恩があります。

それらは、ひとつずつが私にとってはすべて大切なご恩ですが、報恩講の「恩」というのは、「煩悩具足の凡夫」「惑染の凡夫」といわれるように、すべての煩悩を身に備え、しかも時々迷うのではなく常に惑いの中にある私を、この身のまま無条件に救い取ってくださる、阿弥陀如来の本願念仏の教えを明らかにしてくださった親鸞聖人のご恩のことです。

その親鸞聖人のご苦労を偲ぶと共に、尊いご恩にお礼を申し、何としても報わずにはおれない、これが「報恩」の意味です。

 また、報恩のあとに「講」とありますが、これは集まりを意味する言葉です。

浄土真宗の門信徒は、親鸞聖人の祥月命日を勤める報恩講だけでなく、月命日にもお念仏の教えを聞く集まりを持ち、お互いに教えに出遇えたよろこびを語り合いました。

この念仏の集まりのご縁を「講」と言い、現代でも全国各地にはそれを継承する「〇〇講」という集まりがあります。

思うに、今私が念仏の教えに出遇うことができるのは、今日まで尊いお念仏の教えを受け継ぎ伝えてくださった先達のお蔭ですから、報恩講には併せてその方々へのご恩にも報いるようにしたいものです。

 さて、私たちの日々の生活をふり返ってみますと、悩みや苦しみが縁にふれ折りにふれこの身にふりかかってきます。

そのため、日々いろいろな不安にさいなまれながれ生きていると言えます。

これは、仏法でいうところの「五怖畏」という畏れ、具体的には、このままで生きいけるだろうかという生活上の不安(不活畏)、やがて迎えなくてはならない死への不安(命終畏)、自分の名誉が損なわれるのではないかという不安(悪名畏)、地獄などの悪趣に堕ちるのではないかという不安(握手畏)、自信を持てず人前に出ることへの不安(衆威徳畏)などです。

 さらに、私たちは漠然と自分の人生が自分の思い通りになることを期待していますが、私の身の事実は、四苦という言葉で端的に言い表されているように「生・老・病・死」どの一つを取り上げてみても、私の思い通りにはなりません。

気がついたら私は既に生まれていて、性別・時代・環境・能力、その他何一つとして自分の思い通りにはならず、しかも私は死ぬまで私であり続けなくてはなりません。

また、年を重ねるにしたがって、若い頃は当たり前と思っていたことが次第に当たり前でなくなっていったり、どれほど健康を願っても心身ともに蝕まれたりしていきます。

そして、いつとかこんなふうにと願っても、予期しない形で死の瞬間がやってきます。

これらは、どんなに必死に神仏に祈っても、どれほどの修行を積んでも、私の思い通りにはなりません。

まさに、ここに人間としての限界と悲しさがあります。

 けれども、私自身の力ではどうすることもできないことであるからこそ、まさにその苦しみにどこまでも寄り添い救いとってくださるのが、阿弥陀如来という仏さまの慈悲の心なのです。

私たちは常に迷いの中にあるため、死ぬ瞬間まで自分が妄想する畏怖心は消えることはありませんが、親鸞聖人は、念仏の教えに遇う者は、その不安の中にありながら、その不安のままに本願を感じ安心できる境地を恵まれるのだと教えてくださいます。

そして、そんな阿弥陀如来の教えとともにあるからこそ、安心とよろこびの中に、私たちのこの命はかけがえのない人生をおくることができるのだと力強く語られるのです。

 「報恩講」は、まさしくそんな親鸞さまとその教えに出遇わせていただく尊いご縁です。

ぜひ、大切にしていただけたらと思います。