「親鸞聖人の他力思想」5月(中期)

面白いことに、他力本願とか阿弥陀仏の救いは、

「何もしなくていい」

「何もしなくてもあなたを救う」

という教えです。

これを

『無条件の救い』

とも呼びますが、私たちには何もいらないと言われているのです。

「何もいらない」

と言われるのですから、何かをする必要はないのです。

極端な言い方をすると、遊んでいても救ってもらえるということです。

 けれども

「何しなくても救う」

と言われて、そのまま遊ぶことの出来る人は、元気で幸せな人であって、遊んでいても何も苦労のない人だといえます。

 ところが、そのような人がある日、自分は必ず死に至るというような重い病気に罹るといった、とんでもない不幸な状態に陥ったとします。

そうしますと、

「無条件で救ってもらえるのですね。

ともて素晴らしいことです」

というような心はどこかに吹き飛んでしまいます。

そして、必死になって神さまとか仏さまに助けを求め、

「救ってください」

と祈ることになります。

 無条件の救いを聞いているのであれば、このいちばん悲惨に時にこそ、

「ああ既に、自分は救われている」

と喜んでいればいいはずなのです。

しかしながら、そのような心は絶対に起りません。

なぜなら、自分の今までの楽しみが消え去って、苦悩のどん底に落ち込んでしまうからです。

苦悩のどん底に落ち込んだ者は、平気で楽しく遊んでいることなど出来ません。

そのときこそ、必死になって、あらゆる手段を使って、まさに死にもの狂いになって何かにすがりつこうとするのです。

これが、楽しく遊んでいる人の姿です。

 この人にとっては、ただ空しくしがみついて、やがて死んでしまうしかないのです。

けれどもその時に

「何もいらない。

あなたを救っている」

という教えに既に出遇っている人には、そのような祈りは不要です。

 阿弥陀仏の本願力、他力とは、信じる者を救うという教えです。

そうであれば、信じなければ救われないということになります。

 そこで、阿弥陀仏を信じるとは、どのようなことなのかということが問題になります。

そうなりますと、実は浄土真宗の教えは、何もしなくてもよいという教えではありえなくなります。

私たちの本質は愚かな凡夫であって、自力であれこれはからうしか能がありません。

そのような自力で迷いに満ちた心しか持ち合わせていない者が、どれほど必死になって阿弥陀仏を拝んだところで、さらに迷いを重ねるばかりです。

したがって、そのような者が、そのまま救われることはありません。

だからこそ、なぜ自分は阿弥陀仏に手を合わせているのか、なぜ念仏なのか、なぜ浄土なのか、このような問いを先に真剣に持たなければ、自分にとっての宗教的行為は、結局、何の意味も持ち得ないことになります。

自分の行為が自力とか他力とか、祈る必要があるのかないのか、そのような人間のはからいの心は、とりあえず全部捨ててしまえばよいのです。

所詮、私たちは迷い満ちた心しか持ち合わせていないからです。

そうであれば、そのような心のままでよいのだといえます。