「親鸞聖人の他力思想」5月(前期)

 そうなりますと、生きるときに必要なものと、死を前にしたときに必要になるものとは、全然違ってくるということになります。

生きるときには努力が必要で、自分の力をたのみ、人々と力を合わせて助け合っていくことが、生きるためには必要なことです。

けれども、死を前にしたときは、それらは全て何の役にも立ちません。

 そこでもう一度

「底のない沼に落ちたときには救いはあるか」

という問題に戻ります。

実は、ただ一つだけ救われる可能性があります。

それはどのようなことかというと、沼に落ちた人が事前の準備が周到で、山に登る準備だけではなく、自分がそのような沼地に落ちても、自分の体が浮くような浮き袋を持っていたとしたら、これは助かることも可能です。

 ただし、このような準備は沼に落ちる前にしておく必要があることは言うまでもありません。

たとえば、太平洋の真ん中で遭難したとします。

船が沈没すれば、おそらく全員が死んでしまいます。

どんなに泳げる人でも、またどのように体力のある人でも、自分の力だけでは、ほぼ間違いなく力尽きて死んでしまうと思われます。

 ところが、その中に非常に準備のいい人がいて、絶対に沈むことのない浮き袋やゴムボートを持っていればどうでしょうか。

あるいはそのとき、必ず助けを呼ぶことのできる通信機器を持っていれば、遭難しても助かる可能性が飛躍的に高まります。

けれども、何の準備もなしに大海原のただ中で遭難したときは、いくら叫んでも仕方がありません。

遭難したとき、予めどのような準備をしているかが重要になります。

 そこで、臨終の問題について考えてみます。

もし、心に神・仏の信仰を持っていない人が、臨終のときに必死に祈っても、これは何の役にもたちません。

祈るということは、神・仏に対して

「救ってほしい」

と願うことだからです。

ただし、神・仏に一心に祈ったとしても、

「救ってほしい」

と願っている間は、救われていない訳で、また救われていないからこそ

「救ってほしい」

と祈ることになるのだといえます。

したがって、臨終のときに、いかに一心に祈っても、救われることはありません。

 そうだとしますと、その臨終のときに祈るとか祈らないということは、救いにおいては何ら問題ではないということになります。

自分の中に、絶対に砕かれない無限の力がそのときすでに宿っていれば、臨終のとき祈る必要はありません。

祈る・祈らないにかかわらず、この人は既に無限の力の中で永遠に生かされているからです。

 ただし、この無限の力との出遇いは、幸福で元気なときでなければなりません。

そうでないかぎり、私たちは臨終には惨めな心で死んでしまうことになります。