「親鸞聖人の仏身・仏土観」(7月中期)

(二)の

(二)行と申は本願の名号をひとこゑとなへてわうじゃうすと申ことをききてひとこゑをもとなへもしは十念をもせんは行なり。

も『末燈鈔』の文で、第十一通に当たります。

ここでは

「行の一念と信の一念」

の関係が問われます。

親鸞聖人はこの二者の関係を

「行」

という概念でとらえられます。

「本願の名号を一声称えて往生す、という阿弥陀仏の誓いを聞いて、一声をも称え、十念をもする」

ことが、行だといわれているからです。

ところで、この文中の

「聞く」

について、聞くとは、本願の勅命を聞いて疑心が全くなくなることだとして、その心に信の一念を見られます。

そこで、ここに信の一念をはさんで、二種の行の一念が存在します。

「ひとこゑとなへてわうじゃうす」

という本願の教法を聞いて、

「ひとこゑをもとなへ」るの

「一声」

がそれで、

「行の一念」

「信の一念」

「行の一念」

という

「聞いて」

という信をはさんで、二種の

「行」

の関係が見られるのです。

しかも、この全体を親鸞聖人は

「行」

とらえられるのです。

では、その行とは何でしょうか。

「一声称えて往生す」

という弥陀の勅命だといえます。

弥陀の誓願のはたらきが、必然の道理として衆生をしてその誓願を信ぜしめ、称名しているからです。

ここで重要なのは、信じた後の称名ではありません。

この称名は、勅命に信順している姿でしかありません。

したがって重視されるべきは、衆生に信を生起せしめる

「称名せよ」

という勅命、本願のはたらきです。

この行の一念と信の一念の関係がここで問われています。

だからこそ、この行の一念を離れては、信の一念は成り立ちませんし、行の一念は意味をなさないのです。

「行一念と信一念」

の関係は、まさに行の一念が信の一念を成就せしめるのですから、親鸞聖人はこのはたらきの全体を

「行」

として捉えられ、この一切を

「みだの御ちかひ」

だと理解されたのです。

「自然法爾」

のお手紙では、この弥陀の御ちかいが

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

という、弥陀のはからいだとされます。

「ひとこゑとなへてわうじゃうす」

という行の一念こそ、

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへん」

という、弥陀の

「はからい」

そのものになるのです。