では親鸞聖人にとって、真の浄土とは何であったのでしょうか。
『唯信鈔文意』
で、善導大師の
「極楽無為涅槃界」
の文を、次のように解釈しておられます。
極楽とまうすは、かの安楽浄土なり。
よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。
かのくにをば安養といへり。
曇鸞和尚はほめたてまつりて、安養とまうすとのたまへり。
また論には、蓮華蔵世界ともいへり。
無為ともいへり。
「極楽」
とは、かの安楽浄土だといわれます。
「かの」
とは、阿弥陀仏を指しておられることは明らかで、
「安楽」
とは心が安らかで、楽しみが極まりない状態を意味しています。
そこで、浄土とは
「よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらぬ」
世界だと解され、曇鸞大師の教えによって、
「安養」
ともいうと述べられます。
安養もまた、心身とも安らかに生かされている姿を示しています。
さらに天親菩薩の
「一心に専念し作願して、彼に生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもっての故に、蓮華蔵世界に入ることを得」
の言葉を承けて、本来、華厳経の本尊、毘盧遮那仏の浄土である
「蓮華蔵世界」
を、阿弥陀仏の浄土だと解されます。
このような言葉をみれば、阿弥陀仏の浄土は、ここでは場所的に、相好的に、感覚的に捉えられていると言えなくもありません。
ところが、その結びで、
「無為ともいへり」
といわれます。
そうしますと
「極楽・安楽・安養・蓮華蔵世界」
の意は、
「無為」
の意において捉え直さなくてはなりません。
これらの語はすべて、無為の意の形容になっているからです。
では
「無為」
とはどのような意味でしょうか。
「真仏土巻」
で『涅槃経』引文によってこの
「無為」
を
一切有為は、皆これ無常なり。
虚空は無為なり。
この故に常と為す。
仏性は無為なり。
この故に常と為す。
虚空は即ちこれ仏性なり。
仏性は即ちこれ如来なり。
如来は即ちこれ無為なり。
無為は即ちこれ常なり。
常は即ちこれ法なり。
法は即ちこれ僧なり。
僧は即ちこれ無為なり。
無為は即ちこれ常なり。
と説いておられます。
「無為」
とは、虚空であり、常であり、仏性であり、如来であり、法であり、僧だといわれるのです。
この場合
「僧」
とは、僧侶のことではなく、仏の法を伝達するはたらきを意味しています。
したがって無為は、真如・真涅槃の同義語になります。
このように見れば、
「よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらぬ」
心は、仏の悟りの内実として捉えなくてはなりません。