「親鸞聖人の仏身・仏土観」(8月後期)

では親鸞聖人にとって、真の浄土とは何であったのでしょうか。

『唯信鈔文意』

で、善導大師の

「極楽無為涅槃界」

の文を、次のように解釈しておられます。

極楽とまうすは、かの安楽浄土なり。

よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。

かのくにをば安養といへり。

曇鸞和尚はほめたてまつりて、安養とまうすとのたまへり。

また論には、蓮華蔵世界ともいへり。

無為ともいへり。

「極楽」

とは、かの安楽浄土だといわれます。

「かの」

とは、阿弥陀仏を指しておられることは明らかで、

「安楽」

とは心が安らかで、楽しみが極まりない状態を意味しています。

そこで、浄土とは

「よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらぬ」

世界だと解され、曇鸞大師の教えによって、

「安養」

ともいうと述べられます。

安養もまた、心身とも安らかに生かされている姿を示しています。

さらに天親菩薩の

「一心に専念し作願して、彼に生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもっての故に、蓮華蔵世界に入ることを得」

の言葉を承けて、本来、華厳経の本尊、毘盧遮那仏の浄土である

「蓮華蔵世界」

を、阿弥陀仏の浄土だと解されます。

このような言葉をみれば、阿弥陀仏の浄土は、ここでは場所的に、相好的に、感覚的に捉えられていると言えなくもありません。

ところが、その結びで、

「無為ともいへり」

といわれます。

そうしますと

「極楽・安楽・安養・蓮華蔵世界」

の意は、

「無為」

の意において捉え直さなくてはなりません。

これらの語はすべて、無為の意の形容になっているからです。

では

「無為」

とはどのような意味でしょうか。

「真仏土巻」

で『涅槃経』引文によってこの

「無為」

一切有為は、皆これ無常なり。

虚空は無為なり。

この故に常と為す。

仏性は無為なり。

この故に常と為す。

虚空は即ちこれ仏性なり。

仏性は即ちこれ如来なり。

如来は即ちこれ無為なり。

無為は即ちこれ常なり。

常は即ちこれ法なり。

法は即ちこれ僧なり。

僧は即ちこれ無為なり。

無為は即ちこれ常なり。

と説いておられます。

「無為」

とは、虚空であり、常であり、仏性であり、如来であり、法であり、僧だといわれるのです。

この場合

「僧」

とは、僧侶のことではなく、仏の法を伝達するはたらきを意味しています。

したがって無為は、真如・真涅槃の同義語になります。

このように見れば、

「よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらぬ」

心は、仏の悟りの内実として捉えなくてはなりません。