「親鸞聖人の仏身・仏土観」(9月前期)

では

「よろづのたのしみ」

とはどのような意味でしょうか。

『涅槃経』では続いて

「大楽有るが故に大涅槃と名づく」

と語られていますが、この大涅槃としての

「大楽」

が、この

「よろづのたのしみつね」

の意になるのではないかと思われます。

では、大楽とは何でしょうか。

涅槃は無楽なり。

四楽をもっての故に、大涅槃と名づく。

何等かを四と為す。

一は、諸楽を断ずるが故に。

楽を断ぜざるは、則ち名づけて苦と為す。

もし苦有らば、大楽と名づけず。

楽を断ずるをもっての故に、則ち苦有ること無けむ。

無苦無楽いまし大楽と名づく。

涅槃の性は無苦無楽なり。

この故に涅槃を名づけて大楽と為す。

まず、諸楽を断ずることを大楽とされます。

なぜでしょうか。

それは、この世の世俗的な場における楽しみの一切は、やがて必ず破れてしまいます。

楽の破綻は苦でしかありません。

その楽しみが、大きければ大きいほど、破れた時に味わう苦は大きいといわなくてはなりません。

したがって、破れるべき楽を断じない限り、その楽は苦でしかないのです。

では、苦は楽なのでしょうか。

苦が楽であるはずはありません。

では、苦しみでもなく楽しみでもない状態が

「楽」

なのでしょうか。

もちろんそのような状態が楽だともいえません。

人生において、これほど退屈で活気のない姿はないからです。

そこに真実、楽しみなどあるはずはありません。

では、

「楽を断ずるをもっての故に、則ち苦有ることなけむ。

無苦無楽いまし大楽と名づく。

とは、どのような意味なのでしょうか。

その答えは

「涅槃の性は無苦無楽なり」

です。

世俗的な場での

「楽」

の求めを、完全に断つということは、生の執着によって生じる、苦楽の心を超越することにほかなりません。

この心がいま

「無苦無楽いまし大楽と名づく」

と結ばれています。

だからこそ、涅槃が大楽なのであり、

「よろづのたのしみつね」

といわれるのです。

こうして

「極楽無為」

は、楽の究極としての

「無楽」

の意となります。

ではその無楽の涅槃界とは、どのような浄土なのでしょうか。