『唯信鈔文意』の次の文に注意してみたいと思います。
涅槃界といふは、無明のまどひをひるがへして無上覚をさとるなり。
界はさかひといふ。
さとりをひらくさかひなりとしるべし。
涅槃とまうすにその名無量なり。
くはしくまうすにあたはず。
おろおろその名をあらはすべし。
涅槃をば滅度といふ。
無為といふ。
安楽といふ。
実相といふ。
法身といふ。
法性といふ。
真如といふ。
一如といふ。
仏性といふ。
仏性すなはち如来なり。
界とはさかい、境界の意です。
「無明の惑いを翻して、無上覚をさとる」
と述べられていますから、覚りと迷いを分けている境目が、いま
「界」
と呼ばれています。
そして、無明の惑いの境界を越えて、覚りに至った場が、無上覚であり涅槃となります。
では、その
「涅槃」
とは、いかなる場なのでしょうか。
涅槃の義は深遠であって、その義を詳細に述べることはできません。
不十分ではありますが、涅槃の同義語をいくつか拾ってみると、
「滅度・無為・安楽・実相・法身・法性・真如・一如・仏性・如来」
といった語を涅槃に重ねることができるといわれます。
この中
「無為・安楽・常楽」
の語意については、すでに検討を終えています。
いずれも、世俗の執着の場における感覚的・快楽的な楽を意味するのではなく、この語の内実がそのまま
「無苦無楽」
なのですから、仏の正覚としての大楽を意味したのです。
だからこそ、これらの語がそのまま
「実相・法性・真如・仏性」
等の同義語とみなされるのです。
そうしますと、涅槃界としての阿弥陀仏の浄土は、固定的な場所ではありえなくなります。
そこで
「涅槃界」
はさらに、
この如来微塵世界にみちみちてまします。
すなはち一切群生海の心にみちたまへるなり。
草木国土ことごとくみな成仏すととけり。
と解釈されます。
法身であり一如である如来は、無限の国土の微塵の世界に満ち満ちています。
そうしますと、一切の群生海、生きとし生ける衆生は、心のすべてが常に何時いかなる場においても如来で満たされているといわなくてはなりません。