では、この群生海は迷っていないのでしょうか。
親鸞聖人はこの群生海の心について『教行信証』
「信巻」
の三一問答において、
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで穢悪汚染にして清浄の心無し、虚仮諂偽にして真実の心無し。
無始よりこのかた、一切の群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈没し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽無し、法爾として真実の信楽無し。
微塵世界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心無し、清浄の回向心無し。
と、述べておられます。
一方では、微塵世界の一切の群生海の心には、常に真如法性、真実清浄の如来が満ち満ちているといわれ、他方ではまったく逆に、微塵世界の一切の群生海の心は、今日今時に至るまで、穢悪汚染にして一片の真実清浄の心もなく、煩悩界を流転し続けているといわれます。
いったいこれをどう理解すればよいのでしょうか。
涅槃界と煩悩界の関係がここで問題になります。
界は境です。
涅槃と煩悩の境はどこにあるのでしょうか。
これをもし場所的に捉えようとするならば、このような疑問には絶対に答えることはできません。
同一の心の全体が、常に清浄真実であり、同時に穢悪汚染であるということは成り立たないからです。
また心の状態として、それを考えることもできません。
ある状況で真実になり、ある環境では不実になるとすれば、
「常」
とか
「一切」
の語は使えないからです。
宇宙全体の微塵世界の一切の群生海の心には、常に清浄なる如来が満ち満ちています。
同時に、その一切の群生海の心の全体は、常に、穢悪汚染・虚仮諂偽でしかありません。
この真理を示しているのが、
「縁起の法」
であると思われます。
仏教では、宇宙の一切が
「縁起」
だと説きます。
したがって、この世で縁起でないものは存在しません。
衆生の心は、覚りと迷いに二分されます。
その境目が
「界」
です。
前者が涅槃界であり、後者が煩悩界です。