「親鸞聖人の仏身・仏土観」(10月前期)

けれどもこの両者は共に縁起の中にあるのであって、決して縁起の外にあるのではありません。

涅槃界の衆生も煩悩界の衆生も、すべて同じく縁起的に生かされているのです。

では、涅槃と煩悩、覚りと迷いの

「界」

はどこにあるのでしょうか。

両者とも縁起の中にあって、縁起の真理を覚知するか否かによって、その差が生じるのです。

縁起を見るものは仏を見るといわれますが、まさに自らの全人格的な場で、縁起の法を覚知したものが、仏陀・如来・仏性であり、覚知しえない者が迷える凡夫なのです。

だからこそ、如来・仏性はこの縁起の法と共にあって、未だ煩悩界の中にある衆生に対して縁起を覚知せしめるために、種々の方便をとおしてこの法の真実を説き続けておられます。

煩悩界の衆生は、その一切が穢悪汚染でしかないのですが、それ故にその煩悩界の一切に真実清浄の如来が満ち満ちてましますのです。

「草木国土ことごとくみな成仏すと説けり」

といわれていますが、その一切が如来に満たされているのであれば、如来でない草木国土はありえないとみなければなりません。

いまここで、『一念多念文意』の

「真実功徳」

の説示に注意したいと思います。

真実功徳とまふすは名号なり。

一実真如の妙理円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまふなり。

一実真如とまふすは、無上大涅槃なり。

涅槃すなはち法性なり。

法性すなわち如来なり。

宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。

この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のさかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆへに、報身如来とまふすなり。

「真実功徳とは、名号のことです。

その名号は、一実真如の妙理を円満しています。

それ故に、この名号は大宝海に喩えられます。

一実真如とは、無上大涅槃であり、涅槃とは法性であり、如来です。

宝海とは、如来の真実功徳は、一切の衆生をまったく差別することなく、平等に、その無上大涅槃に導きたもうています。

そこでこの功徳を、大海の水に喩えているのです。

引文前半の大意は、ほぼこのように理解することができます。

この

「名号」

「自然法爾章」

の文に重ねてみることにします。

そこでは、弥陀の誓願は

「南無阿弥陀仏とたのませて」

一切の衆生を無上仏にならしめようと誓われている、といわれます。

南無阿弥陀仏こそ真実功徳、一実真如の妙理を円満している名号にほかならないからです。

そして、この名号が大宝海だとされ、この大宝海が一切の衆生を平等に無上仏に導いているのです。

そうしますと、一声一声の称名には大宝海の功徳が満ち満ちています。

その称名に差別はありません。

一切の衆生は念仏とともに、平等に大宝海に摂取されています。

この真理を衆生に知らしめるために、真如が阿弥陀仏という仏となって、この世に出現されたのです。