「親鸞聖人の仏身・仏土観」(10月中期)

引文の後半は、この阿弥陀仏出現の原理を語っています。

名号が

「一実真如の妙理」

を円満しているのは、真如が仏の法蔵の一切を菩薩の相に示し、無碍の誓いを起こして、光明無量・寿命無量の功徳を成就されました。

その相が南無阿弥陀仏です。

したがって称名するということは、阿弥陀仏の大悲心が

「南無阿弥陀仏」

という大行となって、衆生の心に来たっていることにほかなりません。

念仏が念仏者を

「きらはず、さわりなく、へだてず」

平等に救うのは、必然の道理です。

この救いの構造が

「極楽無為涅槃界」

の文の結びで、より詳細に次のように説かれています。

この一切有情の心に方便法身の誓願を信楽するがゆへに、この信心すなはち仏性なり。

この仏性すなはち法性なり。

法性すなはち法身なり。

なぜ一切の有情は、やがて必ず、阿弥陀仏の誓願を信楽するのでしょうか。

この論理構造は

「信巻」

の三一問答に明らかです。

まず字訓釈において、本願の

「至心信楽欲生」

の三心は、本来、真実清浄の信楽の一心であって、この心にはいかなる虚仮も邪偽も雑わらないとされ、次いで法義釈で、その信楽の一心が、至心信楽欲生の功徳のすべてを名号におさめて衆生に回向されます。

この大悲心の躍動が、

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからせたまひたる」

であり、そしてその

「はからい」

が、阿弥陀仏の衆生に

「自然のやうをしらせんれう」

であったのです

このように弥陀は常に名号を通して、

「本願の信楽を二心なく信ぜよ」

と勅命されているが故に、衆生はやがて必ず、阿弥陀仏の信楽を信知するに至ります。

この自然の道理を、親鸞聖人は

『尊号真像銘文』で

「如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば信楽とまふすなり。

と説かれます。

衆生が

「誓願を信楽する」

すべてが、阿弥陀仏の信楽の

「はからい」

によるもので、この信心を

「信心すなはち仏性」

だといわれるのです。

しかれば仏について二種の法身まします。

ひとつには法性法身とまうす。

ふたつには方便法身とまうす。

法性法身とまうすは、いろもなし、かたちもましまさず。

しかればこころもおよばず、ことばもたえたり。

この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす。

その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。