ここで、この法の流れを整理してみますと、
(1)阿弥陀仏は本願に念仏を選択し、その念仏によって一切の衆生を攝取するという本願を成就して、その念仏を十方に響流する。
(2)釈迦仏は、弥陀三昧の中で、この念仏の法を領受し、釈迦仏の国土の衆生を救うために、その法門を説法する。
(3)釈尊が説くその念仏の法門が、純正浄土教に伝承される。
(4)その念仏の真理が、善導大師によって説かれ、わが国では法然聖人によって明らかにされた。
(5)法然聖人の説法という浄土真実の行によって、親鸞聖人は弥陀の本願を獲信した。
ということになります。
では、この
「信」
によって、親鸞聖人にどのような真理が明らかになったのでしょうか。
阿弥陀仏は本願に
「至心信楽欲生我国、乃至十念」
と誓っておられます。
一般的にこの三心と十念は、衆生が発起する信心と念仏であると解釈されています。
けれども親鸞聖人は
「至心信楽欲生」
の三心は、弥陀が本願に一切衆生を浄土に往生せしめるために成就された大悲心であり、
「乃至十念」
は弥陀から一切の衆生に呼びかけられている本願招喚の声だと見られます。
それゆえに
「南無阿弥陀仏」
という称名念仏は、称えている念仏者の行ではなくて、その衆生を攝取するための、阿弥陀仏の大行・大信であると捉えられることになります。
では
「南無阿弥陀仏」
という六字には、どのような義があるのでしょうか。
この南無阿弥陀仏を善導大師は『観経疏』
「玄義分」
で、
南無というは則ちこれ帰命なり、またこれ発願廻向の義なり。
阿弥陀仏というは、則ちこれその行なり。
この義をもっての故に必ず往生を得。
と解釈されます。
私たちが称える称名念仏について、
「南無とは阿弥陀仏に対して一心に帰命し、その浄土に往生したいとの願いを発起する義である。
阿弥陀仏とは、まさしく称名行であるがゆえに、願と行を具足して、必ず往生を得る」
と述べられるのです。
ところが親鸞聖人は、この称名念仏を、私たちが称える以前に、阿弥陀仏から衆生の心に来る弥陀の大悲心のはたらきであると捉えられ、この六字を次のように見られます。
『「南無」
とは帰命であり、その帰命とは、阿弥陀仏の本願招喚の勅命である。
「発願廻向」
とは、阿弥陀仏が発願して、衆生が往生するための行を、弥陀自身において成就し、その行を衆生に廻施されている。
阿弥陀仏の大悲心である。
「即是其行」
とは、その念仏が阿弥陀仏の選択本願の行だということである。
「必得往生」
とは、それゆえに、衆生がこの願力廻向の真実を聞き信じた瞬間に、往生することを示しているのである。
』