「ヒトの意識が生まれるとき」(下旬) 循環が生まれる

 私がちょうどあるコンビニの前に立っていたときのことです。

そのコンビニには、十センチぐらいのちょっとした段差があったんですけど、目新しい三角のスロープが付けてありました。

おそらく

「バリアフリー天文館」

の一環でしょう。

そこに車椅子の若い方がやって来て、上がろうとしていました。

私はちょっと離れたところにいたんですが、その方がグッと顔をしかめられたので、走り寄って行ったらその瞬間にパッと上がれたんです。

女性の方でしたけれども、私の方を見てコニッとされたんです。

私もニコッと返しました。

実際に押したかどうかということではなくて、そういうことでの「きずな」みたいなものが、私たちの周りにたくさんあるはずだという気がするんです。

ところが、コンビニの前にたむろしている若い子たちは、たとえ知っている子がいても、そういう状況ではなるべく目を合わさないようにして通り過ぎていたりすることがあります。

そのような、大人でも距離をおいてしまっている。

つまり「きずな」を作らないようにしているのです。

子育て一つとってみても、昔はいろんな意味で忙しかったりしたら、お母さんは家事洗濯のときも赤ちゃんをおぶっていました。

今と違って遊園地に連れて行くとか、そんなことを全然しなくても、ある意味で常に赤ちゃんはお母さんの温もりを背中を通して感じ、お母さんは赤ちゃんの様子を背中を通して感じていたのです。

そういうものがあったのに、どうも最近の親子の様子を見ますと、何かちょっと違ってきてはいないでしょうか。

鹿児島県内にも、各地にたくさん公園が整備されています。

時々行くんですけど、「健康の森公園」であるとか、「錦江湾公園」であるとか、若いご夫婦が就学前の幼児、あるいはそれ以下の乳児を連れてたくさん遊びに来ています。

こういう場所があっいいなと思うんですけど、よく見ると、親がベンチに座っているだけで、子どもだけを遊ばせているというようなことがあまりにも多いような気がします。

そしとて時間が来たら、「帰るよ」という感じで、子どもたちを車に詰め込んでいます。

はたして、これで「きずな」作れるんだろうか、というような気がします。

一緒に過ごす時間というのは、ただそこにいるだけじゃなくて、お互いに循環が生まれるような関わり合いすることだと思うんです。

赤ちゃんの子育てというものはそういうものだったと思います。

それをいつの間にか、私たちは一方通行の子育てに変えてきて、そして子どもが見えなくなったと言っているのです。

循環がずっとあれば、なんとなく感じられる部分があるような気がするんです。