私たちは、自分の思いが行き詰まったりすると、
「なぜ私は、こんな私でなければならないんだろう…」
と歎いたりすることがあります。
そして
「あの人みたいだったら良いのに…」
とか、
「この人みたいだったら幸せなのに…」
と思ったりすることもあります。
けれども、どこまで行っても私は私以外の何者でもなく、またどれほど自分の身の不幸を歎いてみても、死ぬまでこの私として生きる以外に道はありません。
そうしますと、人生の途上において私に問われていることは、
「この私を、どこまで私として生き得ているか」
ということになるのではないでしょうか。
それは、
「あるがままの私をそのまま受け入れて、最後まで生き尽くそうとしているか」
ということです。
以前、
「自分が今どのような思いで生きているか」
ということについて、子ども達からマスコミにいろいろな投書が寄せられたことがありました。
その中に
「親の愛情といっても決して無条件のものではなく、親の思いにかなうことをしている時は愛してくれているけれども、ひとたび親の期待を裏切るようなことをすると、親は切り捨ててしまう。
だから自分は、親の気に入るように仮面をかぶる。
そして、学校では先生の気に入るような仮面、道を歩いている時は近所の人が褒めるような仮面、家へ帰ったら親が喜ぶような仮面。
一日中仮面をつけているので、夜寝る時には顔が痛い」
という文章を寄せた少女がいたそうです。
周りの要求に対して、
「自分が自分のままであることは許されない」
という空気を敏感に読み取り、必死の思いで仮面をつけて演技しているということの苦しさを訴えている訳ですが、実はこの文章は特別なものではなく、他の多くの子ども達も同様の思いを述べていたそうです。
考えてみますと、これは子どもだけの問題ではなく、私たち大人も、自分の身を守るためにいろんな仮面をつけたりしてはいないでしょうか。
社会生活を営む上では、我慢をしいられたり、言いたい言葉を必死で飲み込んだりしなければならないことも少なからずあります。
特に今の社会は、
「気に入らないことがあれば、文句を言わなければ損だ」
といった風潮があり、苦情を受ける側に立たされると、多くのストレスを抱え込むことになります。
その結果、今度は自分が苦情を言う側に回ると、必要以上に不満をぶつけたり、時には怒りを爆発させたりといった悪循環を生むことにもなっているように窺えます。
ある一家の大黒柱であったご主人が交通事故で亡くなられた時、周囲の方々がその家の生活を心配して、慰謝料とかの配慮をされたのだそうです。
すると、日頃から仏法を聞いておられたその家のおばあさんは
「そうしてもらって、死んだ息子が帰ってくるのなら、どれだけでも努力はする。
しかし、これも因縁だ」
とおっしゃったのだそうです。
ただし、その翌日から、そのおばあさんは野菜を大八車に積んで町に売りに出られました。
ここで語られている
「因縁」
ということは、その因縁の事実にしたがって生きて行く、その歩みのことです。
「因縁だ」
と言ってそのことに腰をおろしているのであれば、それは単なる解釈に過ぎません。
けれども、それを因縁だと知るということは、このおばあさんのように、その因縁の事実にしたがって生きて行けるということです。
このような歩みを仏教では智慧といいます。
智慧とは、たとえ私の思いと現実とかどれだけ違っていたとしても、それが我が身の事実であるならば、その事実を事実として受け止め、それにしたがって生きていく力のことです。
したがって、たとえ自分の思いで選んだことでも、納得したことではなかったとしても、その事実を受け止めて、自分のありのままを生きようとする生き方。
私の選んだことではないけれども、その事実の他に私のいのちの事実はないと、はっきり引き受けて行く勇気。
これが、仏教でいう智慧です。
私の選びを超えて、私のいのちの事実として与えられてあることを、まさしく私のいのちの事実として責任を持ち、その事実を引き受けてこの人生を生き尽くしていきたいものです。
なぜなら、すべての歩みが私となっていくのですから。