「僧侶のみる現代宗教の状況」(下旬)仏様と自分の生きる姿を照らし合わせて生きていく

本来、宗教とは人間を超えたものによりどころを持つことでした。

仏教の場合ですと、仏さまをよりどころにするということです。

では、仏さまとはいったいどういうお方がご存知でしょうか。

そもそも、人間はすべてを自分の幸せを中心に考える存在です。

だから、他人の喜びを同じように喜ぶのは難しいし、他人の痛みは自分のことでなくて良かったと思ってしまいます。

その真反対、人の喜びが自らの喜びであり、人の悲しみが自らの悲しみであり、人の痛みを自らの痛みとして、その痛みを共にし、痛みを乗り越え、痛みを和らげていくような心と行いを持とうとする方を、仏さまというのです。

仏さまをよりどころにするということは、そういうお方を目指して生きるということです。

そして、そういう思いがない自分を恥ずかしいと自覚し、少しでも恥ずかしくないようにと努力と精進をすることです。

仏さまと自分の生きる姿とを照らし合わせ、常に判断の場で意識しながら生きていくことが、宗教心を持つということであり、仏教に志を持つということなんです。

このように、宗教というものは、私たちの意識における価値観の位置付けに深く関わりますから、極めて教育的なものと重なり合うことになります。

ですから、特定の宗教を大事にしなさいと言ってはいけないかもしれませんが、人が本当の意味で、人間としての品性や価値観を確立させていくためには、宗教的教育は大変重要なもののはずなのです。

事実、伝統的な仏教は、ある時期そのような教育的役割を持っていました。

特にこの浄土真宗はそういう意識が強く、多くの人が仏さまや親鸞さまを中心にして問題意識を育んでいました。

でも、そうなりますと、時には政治の社会と対立せざるを得ないときもあります、戦争をしなさいという時代に、戦争をしてはいけないと言うと、やはり対立をしてしまいます。

そのような対立が何度も起こり、その結果、寺は人間の教育に関わるな、うるさく説教をするな、静かにしていなさいと言われ、それが普通になっていってしまったんです。

でも、それではお寺の役割がなくなってしまいます。

そのとき、葬式をしなさいとなったんです。

死んだ人を相手にしていたら静かでいい。

一揆を起こして、徒党を組むこともない。

おとなしくなり、お寺にもお布施が入る。

そういう状況が何百年と続き、現在では、お寺、お経、仏さまと言えば、死んだ方とのつながりが中心になるような意識で見られるようになっています。

そして、いまだに伝統的な宗教は人々の心をリードすることが出来ないままに、形は形だけとして残り、心は他の宗教で、という現実になっているのではないでしょうか。

いったい自分は何をよりどころにして生きているのか、そういうことをもう一度よく見つめ直すところから、真の意味での宗教との出会いが生まれるように思われます。