「阿弥陀さまと私」(下旬) 生き方が変わる

 また、信を獲るということは、よく分かるということです。

例えば

「2+2=4」

であるというのは、皆さんよく分かると思います。

このことを信じているというのです。

たとえ東大の数学科の人が

「2+2=5」

であると言ったとしても、皆さんは問題にしないでしょう。

それは

「2+2=4」

であると分かって信じているからです。

「勝利を信じていた」

などと、強く思い込むことを世の中では信じるという場合がありますが、仏教でいうところの信じるとは、よく分かるということなのです。

何を分かるかと言えば、私と阿弥陀仏の関係です。

それが分かって、私の主人公は阿弥陀さまであると領解することを信を獲るというのです。

信を獲ると、私の我を主人公とする生き方から、阿弥陀仏を主人公とする生き方に必然的に変わります。

つまり、間違いが元に戻るわけです。

妄想から目が覚めるのです。

ただ、信を獲たところで現象は何も変わりません。

しかし、考え方は、ひっくり返るわけです。

つまり、生き方が変わるということなのです。

そして、浄土としての生き方に変わることを往生浄土というのです。

往生浄土というのは、生き方が変わるのであって、場所が変わるのではありません。

自分の在り方、生き方が変わることを言うのです。

そして、逆に信を獲ずして、往生浄土はあり得ないのです。

信を獲ることと往生浄土は同じことなのです。

信を獲ることによってのみ往生浄土は成り立つのです。

そして、往生浄土が成り立って、阿弥陀仏の操り人形に徹するのですが、操り人形にはいのちがありません。

私が阿弥陀仏の操り人形だと分かったところでは、私には私の本当のいのちがなかったと分かる、私の本当のいのちは阿弥陀仏であったと分かるのです。

これを

「前念命終、後念即生彼国」

といいます。

独立した私ではなくて、大きな生命体の表れであったと気付くわけです。

死んで浄土に行くというのは、このことをいうのです。

気がついてみたら、私の命というものはなかった、本当のいのちは向こうにあった。

これに気付くことで、命が終わるのです。

命が終わって浄土に行くというのは、何も心臓が止まること、生物学的な命の終わりを言うのではないのです。

逆に言えば、信を獲ていない人が死んでしまっても、輪廻を繰り返すだけで浄土に往くことはできません。

心臓が動いている間に信を獲ないと、浄土には永遠に行けないのです。

南無阿弥陀仏と称える念仏は、私の思うこと、しゃべること、願うこと、全て浄土の営みのあらわれであって、阿弥陀さまのなせることなのだと目覚めて、阿弥陀さまの右手に徹しようということなのです。

そのことに忠実になることが、南無阿弥陀仏なのです。

生きて、老いて、病んで、死んでしまうこと全てが、阿弥陀さまのなすことだと目覚めることを南無阿弥陀仏というのです。

衣食住全てが南無阿弥陀仏です。

「正信偈」

の最初に

「帰命無量寿如来」

とあります。

帰命=南無、無量寿如来は阿弥陀仏のことですから、南無阿弥陀仏のことなのですが、帰命とは

「命に帰する」

と書きます。

これは、阿弥陀さまのいわれる通りにしますということではなくて、私はすでに阿弥陀さまのなすがままだったと目覚めることなのです。

信の世界こそが、南無阿弥陀仏です。

また、信のない南無阿弥陀仏はないのです。