「阿弥陀さまと私」(中旬) 全て勘違いから

 そして、自分が独立した生命体と思う瞬間に、我執というものが生まれてきます。

我執というのは、わが身が一番かわいいということです。

自己中心的な生き方になるわけなのです。

これは、自分が独立した生命体だという勘違いと共に生まれます。

いると、少しでも健康で楽をして生きていきたいと思うようになるのです。

その反動として、病気が怖いと不安になったり、人を妬む気持ちが起ったり、愚痴をいったりするようになるのです。

このような不平・不満や不安や愚痴や苦しみや悲しみや悩みという人間が生きていく上での苦しみというのは、元をただせば我を一つの独立した生命体だと思う勘違いから起こってくるのです。

この苦しみの別名を煩悩(ぼんのう)といいます。

人の煩悩というのは、阿弥陀仏と自分との関係を知らずに、自分が一つの独立した生命体だと勘違いするところから始まっているのです。

戦争をなくそう、平和を求めて頑張ろうという平和運動をしたり、みんながもっと豊かになるよう経済活動をしたり、あるいは医学に勤しんだりするのも、全て自分が一つの生命体であるという誤解から出発しているのです。

人間の営みは、全てこの誤解から出ているわけです。

これらはまた、阿弥陀さまへの反発にもなっているのです。

このことを、法を謗るといいまして、仏教では一番重い罪とされています。

これが起る根源は、先ほどからの誤解にあるのです。

煩悩の煩は身を煩わし、悩は心を悩ます。

この煩が身を煩わすというのは、例えば気管に異物が入ると、それを排除しようと咳をする。

苦しい。

これが身を煩わすということです。

これもまた、自分を独立した生命体だと思い、その自分を守ろうとするが故に起ることなのです。

煩も悩もこの独立した生命体という身体全体かの誤解から出てくるもので、理性の問題ではないのです。

先ほどの気管異物の話でたとえますと、異物が入ったから排除しようと考えてする人がいないのと同じです。

考える前に身体が反応する、というより、異物が入っているのに気付かずに、拒否反応が起こって初めて気付くぐらいです。

脳だけでなくて、皮膚も、喉も、目玉も、人間の身体全てが、自分は独立した生命体だと誤解しているのです。

だから、身を守ろうとして身を煩わす煩が出て来るのです。

このように、人は誤解をしているのですが、自分と阿弥陀仏の関係を領解することを浄土真宗では

「信を獲る」

と言い、非常に大事にします。

私がこの世に生まれ死ぬことは阿弥陀仏のおはたらきのおかげだと領解することです。

それは芯から領解することであって、嘘か本当か分からないうちは芯を獲ることにはならないのです。

例えば、信じていた亭主が浮気をしていたとします。

そうすると裏切られたと思うかもしれません。

しかし、それは信じていたのではなく、浮気をしないと誤解していただけなのです。