当時、有名な乗っ取り屋といわれた方が
「自分がホテルを引き受ける」
と言ってこられました。
そこから十カ月に渡るその人との攻防戦が始まるのです。
といっても、どんなに一生懸命戦ってみても、私がその人に勝てるはずがありません。
昭和六十年十二月二十日頃だったと思います。
いよいよ指宿ロイヤルホテルをその人に売却する日が来ました。
契約書が出来て実印を持ってその人の会社に行く訳ですが、証人として亡くなった主人の兄に来てもらいました。
また、専務をしていた弟も連れて出かけました。
そして、いよいよ調印という時に、その人はとんでもない条件を出したのです。
「社員は一人もいらない。
全社員を解雇してから渡してくれ」
と言ったのです。
それまで大物であるその人に、私は何も言えずにいました。
しかし、その時は何とも言い表しようのない怒りに全身が包まれて、言ってしまったのです。
「なんてことをおっしゃるのですか」と。
私は心許ない経営者で、その人であれば経営を任せられると思って交渉をしてきたのです。
主人と私が経営を続けてこられたのは、社員のお蔭です。
その社員が不幸になって、私の未来がどうしてあるのでしょうか。
この世の中には、お金で買えない大切なものがあるのです。
私は愚かかもしれません。
でも、大切なものを守って生きています。
「もう交渉はしません」
と言って、調印をせずに外に出ました。
相手の人は、その後、指宿中に噂を流しました。
「ロイヤルホテルは自分が買うのだ」と。
ですから、出入りの業者の方が
「あなたに納めた品物のお金を払ってください」
と、一斉に来られました。
私は、何とか金策をしてその支払いをしました。
一段落がついた頃、社員の一人が私のところに来て、お話がしたいと言いました。
その場所に行ってみると、全社員が集まっていました。
代表の社員が
「この会社を買った人がいるという噂がある。
自分たちを売る気なのか」
と、私に詰め寄りました。
それまでは極秘の話だったのですが、全社員の前では逃げ隠れは出来ません。
正直に
「この会社を売ろうと思っている」
と言いました。
すると、
「やめてください」
「給料を待ちますから、続けてください」
と言われました。
そこで、初めてみんなに分かったのです。
私がどんなに抵抗しても、その人が会社を取っていくこと、そして全社員を解雇することが。
私は全員に向かって
「みなさんが不幸になるようなことはしません」
と言いました。
最後の交渉には、顧問弁護士が同席しました。
私はいよいよこの日が来たと覚悟をしました。
ところが、その乗っ取り屋が言ったのです。
「この話はなかったことにしよう」と。
弁護士さんに
「白紙に異存はありますか」
と聞かれました。
あるはずがありません。
その日にまた全社員が集まりました。
「戦いは終わりました。
私がロイヤルホテルの社長を続けます」
と、私は言いました。
みんながバンザイをする中、私は続けました。
「私一人で会社を続けるわけではない。
皆さんの協力が必要です」
と、みんな喜んで頷いてくれました。
売ろうとする気の中で、何かが分かる訳がない。
命がけで再建すると決心をしてみて初めて何が問題点なのか、何をすべきかが分かるのです。
そのことを一人ひとりに指示として出しました。
そうすることで、みんなが生き生きと働き出したのです。
社長として大切なことを、私は買収交渉の中から学ばせてもらったと思っています。