「いのちのバトンタッチ」〜映画『おくりびと』によせて(上旬)死体をふいた手で触ってくるな

======ご講師紹介======

青木新門さん(作家・詩人)

☆演題 「いのちのバトンタッチ」〜映画『おくりびと』によせて

昭和12年、富山県生まれ。

少年時代を満州で過ごす。

早稲田大学を中退後、富山市で飲食店「すからべ」を経営。

その傍ら文学を志すも、やがて店が倒産してしまう。

昭和48年、冠婚葬祭会社に入り、死に携わる「納棺師」となる。

専務取締役を経て顧問となり、現在に至る。

平成20年にアカデミー賞を受賞した映画『おくりびと』の‘原案’『納棺夫日記』の著者として注目される。

なお、死を超えた先の世界を見いだそうとする『納棺夫日記』と、死の悲しみへの癒しを描いた『おくりびと』は別物だとしている。

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大学中退後に経営していた店が倒産した後、私はふとしたきっかけで、死に携わるこの世界に入りました。

今と違い、昭和20年代の富山県では、ほとんどの家が自宅死亡でした。

そして、ご遺体を棺に入れるまでの一連の作業は全て、親族の方がやるという風習だったんです。

人間は死にますと、革袋に水を入れたようになります。

袖を通すためにちょっと傾けただけで、耳や鼻、口、穴という穴から血の混じった汚い物が出てくるご遺体もあります。

今は病院や施設で亡くなる場合がほとんどなので、皆さんはきれいに整えられた美しいご遺体しか見たことはないと思います。

当時の納棺の現場では、葬儀社はお棺を届けた後は姿を消していました。

納棺は近所の長老が親族の中から何人かの男を選び、指示してやらせるんです。

男たちは嫌々ですから、酒を飲み酔った状態でひどいことをするお宅もあるわけです。

あるとき、余りのひどさに見かねて、私は口出しをしてしまいました。

そうしたら男たちから

「知っているなら手伝え」

と言われて、手伝わされました。

そういうことが何度かあり、それが会社としての取り組みになりました。

納棺の仕事も増えていき、やがて私は納棺専従の社員になっていったんです。

当時は他に誰もやってくれませんでした。

死というものに関わる仕事をするだけで社会全体から白い目で見られ、差別される時代だったんです。

あるとき、大学に入るときに世話になった分家のおじがやってきました。

そして、私をさんざんにののしった挙げ句、

「お前みたいなやつは親族の恥だ」

と言ってきたんです。

私はそれで頭に血が上って、とうとう絶交しました。

私自身はせいせいしていましたが、私の仕事のことが広まると友達もいなくなりました。

年賀状も来なくなりました。

すると私もものすごく意識してしまい、誰にも会わないようになりました。

隠れるように会社に行って、隠れるように納棺して帰ってくる。

そんな状態でした。

そんなある晩、女房に私の仕事がばれまして、

「死体をふいた手で触ってくるな」

「汚らわしい」

と言われました。

そして、娘が学校で父親の仕事を聞かれて答えられないのはまずいので、小学校に入るまでに仕事を辞めてくれと言いました。

私もそれには同感でしたし、何より自分自身、隠れるように生きていることがおかしいと思いました。

それで辞表を書いたんです。

その辞表を提出しようとしていた日の昼。

1つの事件がありました。

私が大学を中退したころに出会った初恋の人のお家で、彼女のお父さんを納棺したんです。

彼女のお父さんというのは、富山に長く続いた製薬会社の社長でした。

つきあっていたとき、何度も父に会ってくれと懇願されましたが、コンプレックスで会いに行けませんでした。

しかし、私がご遺体を湯灌するとき、彼女は障子の影から見るのではなく、私の横に寄り添うように座り、亡くなったお父さんの額や頬をなでたりしながら、ときどき私の方を向いて汗をふいてくれました。

その瞳は、軽蔑や哀れみ、同情などみじんもない。

男と女の関係をも越えた何かを感じました。

私のしていることも含めて、私を丸ごと認めてくれているように、あのとき感じたんですね。