そんなことがあってから、それまで汚い格好で嫌々やっていた納棺の仕事に対する気持ちも変わりました。
納棺する前には、医者のように白い服に着替えて、丁寧な言葉遣いを心掛けました。
同じ納棺という行為でも、汚い服で嫌々やるのと、きちっとやるのとでは、社会的評価が全く違います。
仕事をする以上は、例えアルバイトでも、安易な気持ちでやっちゃいけない。
目の前の仕事を精一杯やるべきだということを学びました。
しかし、相変わらず納棺は誰もが避ける仕事でした。
私の仕事量はどんどん増えて、夜の11時までかかる日が毎日続きました。
そんな状態は疲れます。
親せきとも友達とも会わず、作家になる夢も消えました。
それで娘が小学校に入るくらいになってきたころ、やっぱり辞めようと思うようになっていました。
そんなある日、お袋から電話が来ました。
「親族の恥だ」
と言った分家のおじが末期がんで入院したと言うのです。
私は
「ざまあみろ」
と憎しみを持って、見舞いには行きませんでした。
その後、おじが意識不明になったと聞いて、それならと思い、行くことにしました。
病室に入ったとき、おじの意識が戻りました。
ベッドの近くのイスに座ると、おじが震える手を伸ばしてきて、その手を握ったとき、おじは目から大粒の涙をこぼし、
「ありがとう」
と言ったんです。
その瞬間、私はイスから転げ落ちるように土下座して、おじの手を握り
「おじさんすいません。
許して下さい、僕が悪かった」
という気持ちで泣きました。
そして家に帰った翌朝、おじの死を聞かされました。
おじの葬式の後、1つの本に出会いました。
32歳でがんで亡くなった井村というお医者さんの日記をまとめた本です。
井村先生は、がんの転移が認められたとき、日記に
「雑草が、小石までもが光って輝いて見えるのです。
部屋へ戻って見た妻もまた、手を合わせたくなるほど、尊く輝いて見えました」
と書かれていました。
恐らく先生が見た、ありのままの光景だったはずです。
普段の我々では、ダイヤモンドならばともかく、砂利や小石は光って見えません。
なのに、井村先生は小石までもが光って見えると書かれている。
私はハッとしました。
100%死を受け入れたそのとき、私のおじも井村先生と同じように、あらゆるものが輝いて見える世界に接していたのではないでしょうか。
病院の窓も、看護師も、納棺師になった私をも、差別なく、尊く輝いて見えていたのではないかと思ったのです。