それからは、納棺の際も顔ばかり気にするようになりました。
そうして見てみると、亡くなってすぐの顔というのは、どんな死に方でも、みんな清らかないい顔をしています。
特に子どもさんは、交通事故の場合でも微笑んでいるように見えます。
「死」
の概念を持つのは人間だけです。
それにいろんな間違った思想がこびりついて、生前から死の恐怖を抱いてしまうんです。
子どもは動物と同じで、頭に死の概念がなく、死ぬ瞬間まで死に対する恐れを持たない。
大自然の摂理に従って死を受容しているんです。
平成9年に起きた神戸の連続児童殺傷事件。
そのときの犯人、A少年に対する取り調べで、
「なぜ人を殺そうと思ったのか」
という質問に対して、A少年は、
「自分の大切な祖母を奪った死を理解するには、人間を殺してみなければならないと思った」
というように供述しております。
これに対して、A少年と同じく、祖父の死に遇った同年代のお孫さんのI少年は、
「おじいちゃんは、ぼくに本当の人のいのちの尊さを教えて下さったように思います。
それに最後にどうしても忘れられないことがあります。
それはおじいちゃんの顔です。
それはおじいちゃんの遺体の笑顔です。
とてもおおらかな笑顔でした。
いつまでも僕を見守って下さることを約束しておられるような笑顔でした。
おじいちゃんありがとうございました」
と作文に書いています。
この2人の違いは簡単です。
A少年は大好きだった祖母が亡くなるとき、留守番をしていて死の現場にいませんでした。
そして死を頭で考え、理解しようとしました。
これに対し、I少年は臨終の現場にいました。
そして五感で、身体全体で死を認識したんです。
2日ほど経って葬儀会館に行って、お棺のふたを開けて見ても、それは単なるデスマスク、物体ですよ。
笑顔という文章は絶対出てきません。
死の現場に行ったかどうか。
2人の違いはその差なんです。
私の場合もおじの臨終の場に行かなかったら、今でもおじを憎んでいたでしょう。
しかし、あのとき、おじが
「ありがとう」
と言い涙を流した。
それを見て、私の中に慚愧の回心がありました。
そこから生まれた詩が
『いのちのバトンタッチ』
です。
「人は必ず死ぬんですから
いのちのバトンタッチがあるんです
先に逝く人がありがとうと言えば
残る人がありがとうと答える
バトンタッチがあるんです
死から目をそむけている人は
見そこなうかもしれませんが
目と目でかわす
一瞬のバトンタッチがあるんです」
「前に生れんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪へ」
という親鸞聖人のお言葉があります。
あらゆるものが輝いて見える世界へ先に往かれた方々が、残った人を導いている。
だから、そこをお尋ねしなさいという内容だと思います。
満州で死んだ私の妹や分家のおじも先に往かれた方々です。
その方々に導かれて、私は今日ここにあると信じて疑わないわけであります。