仏教を旗印とする多くの教団、宗派が、国を問わず共通して最も大切にしているものがあります。
それは「三帰依」と呼ばれるもので、仏道を歩むものにとって一番初めに習う仏教の根幹となるものです。
南無帰依「仏」
私は仏さまを大切にします。
南無帰依「法」
私は仏さまの教え(法)を大切にします。
南無帰依「僧」
私は仏さまの教えに生きる仲間を大切にします。
この「仏・法・僧」に帰依すること、自分の人生の依りどころとすることを仏道の第一歩として、自ら声に出して誓います。
またこの三つは
「三宝」とも呼ばれ、私たち仏教徒の宝として、お釈迦さまの時代からずっと大切に受け継がれてきています。
その三つ目に、「仏さまの教えに生きる仲間を大切にする」とあります。
「僧」とは「僧伽(サンガ)」
を意味し、僧侶だけではなく、教えのもとに集まった全ての人々と考えてもよいかもしれません。
親鸞さまは、お念仏(南無阿弥陀仏)の教えをよろこぶ人、その教えを聞き、行ずる人々のことを同朋(とも)と呼び、なかまであると讃えられました。
そこには生まれや育ち、老いも若きも男性も女性も一切の分別を超え、皆等しく仏の子という世界です。
現在のカンボジア仏教の僧王、ボンキリ僧王は、仏教を一本の木に譬えられました。
世界中には多くの仏教宗派があります。
それは譬えるならば、太い幹から伸びる木の枝や葉っぱでありましょう。
けれども、その葉も枝も大きな幹を基とし、広大な大地に支えられています。
容姿の違い、教義の違いはあっても根幹は同じ、みんな繋がっています。
私はこの僧王の言葉に接し、仏教のダイナミックさを感じました。
そしていかに狭い視野で、常識に固執している自分であったかを思い知らされるようでした。
バックパッカー旅行者の間で、まことしやかに語り継がれている言葉があります。
「インドに帰れ」
これは仏教を学ぶ中でよく耳にする言葉で、それがどのようにして旅行者の間に伝わったのかは分かりませんが、私も大好きな言葉の一つです。
インドは仏教のふるさとです。
人も動物も、生も死も、豊かさも貧しさも、全てが混在しています。
インドを旅したある作家は、
たった1ブロック歩くだけで何十年たっても味わえないような、言いようのない感覚が襲ってくる。
と表現しています。
旅人たちもまた、世界各地を歩く中でいろいろなものを目にし、違いや矛盾を感じながら
「生きる」
ということの原点に立ち返ったとき、最後は
「インドに呼ばれる」
ようにインドを訪ねるのかもしれません。
今からおよそ2500年前の昔と今もさほど変わらないと言われるインドのその光景をお釈迦さまもきっと目にしておられたことでしょう。
人が生きる、そこに仏教がある。
やはりインドには、何か大きなものがあるように思います。
仏教の根幹はまさに三帰依、ここに収まるのではないでしょうか。
多方向に伸びる枝葉のように、私たちも生きる場所や環境はそれぞれ違います。
枝が揺れ、葉と葉が重なり、風という
「縁」
に吹かれながら、時には激しく、また柔らかく、お互いに相和して葉音を奏でながら生きるのが私たちでありましょう。
その枝葉の私たちも、三帰依を太い幹とし、そして仏さま、仏陀という大地に包まれています。
ともに仏教徒。
みんな、この地球に生きる同朋(なかま)なのです。