いろんな講座でお話をさせていただくときに資料に、『生老病死=()=()=()』と書いておいて
「では、空白を埋めてみてください」
とお願いします。
ある程度講話が進んだ後だと、結構書いていただけますが、講話の最初に書いていただこうとすると、みなさんかなり悩んでおられる様子がうかがえます。
生老病死と書いて、「しょうろうびょうし」と読みます。
生老病死とは、字の通り生まれて、年を重ね、病になり、そして死を迎えていくということです。
それは間違いない「命」の姿ですから、=の最初の()は、「命」という文字を入れていただきます。
これはよろしいですね。
では次の=()は何でしょうか。
「他人事」
という言葉がありますが、結構私たちは、自分自身のことなのに
「他人事」としてしまっていることが多いようです。
死ということもそうではないでしょうか。
私も必ず死んでいく存在なのに、ついついそのことを忘れがちになってしまいます。
あらためて、生老病死という言葉をじっと見て下さい。
生まれ、老い、病み、死んでいく存在、それは他の誰でもない、私自身のことではないですか?
ということで、二番目の()には「私」と書いていただきます。
さて、問題は三番目です。
ある人は言います。
必ず年齢をとっていくのに、
「年だけは取りたくない、いつまでも若く」と。
またある人は、
必ず病んでいくのに、「健康でなければ意味がない」といいます。
そして、またある人は
必ず死んでいくのに、「死んだら何にもならない」といっています。
私の身体は生老病死していくのに、そしてそれが「かけがえのない存在」であるということなのに、私の思いは生老病死を否定し、避けられないのに、どうしてでも避けようとしています。
ある人とは、だれのことでしょうか。
もしかしたら私のことではありませんか?
仏教では「苦」とは「思い通りにならないこと」と言います。
私たちが生きるということは「思い通りにならない」ということです。
さあ、そろそろ三番目の()が埋められそうですね。
そうです、
生老病死=(命)=(私)=(苦)。
これで完成です。
私たちが生きることは苦しいことなのです。
でも、その苦しみの多くが、人から与えられるものというよりも、自分自身の思いで苦しんでいるのかもしれません。
この自分の思いを整えられたら苦はなくなるのですが、私たちは死んでいくその時まで、自分の思いを整えることができない存在だと、あみだ様は見抜いてくださいました。
そして、あみだ様は、私たちが生老病死=(命)=(私)=(苦)という存在であるからこそ、決して見捨てることができないと、仏さまになって、私に寄り添っていてくださっているのです。