『お盆深い縁に心を寄せる』(前期)

みなさんお誕生日の思い出ってどのようなものですか?

家族や友人たちと食事をして、ケーキが出てきて、プレゼントをもらうのが一般的でしょうか。

個人的なことですが、私は自分の誕生日にワクワクするような、ドキドキするような思い出や、経験がほとんどありません。

なぜかと申しますと、お盆の中日である8月14日が私の誕生日になるからです。

ご存知の通り、お寺にとってお盆は非常に忙しい期間です。

小さい頃の記憶はあまりないのですが、僧侶である父はもちろんのこと、母や家族も皆が忙しく動き回り気がつけば誕生日が終わっている・・・。

僧侶とならせていただいてからはなおのこと、いつの間にか誕生日を過ぎて、

「そういえばアンタ誕生日やったな」

と言われることの方が多いからです。

誕生する、生まれるということは同時に、いずれ死を迎えなければならないということでもあります。

仏教には、ただ

「死んでしまった」

「亡くなってしまった」

で終わりではなく、

「往生(おうじょう)する」

という言葉があります。

「生まれ往く」と書いて「往生(おうじょう)」と言われます。

どこまでも、どこまでも命は繋がっているとお聞かせいただくことができるのではないでしょうか。

生まれ往くとはどういうことなのか。

私はまだ生まれていなかったのか、そしてどこに生まれていくのだろうか。

そんな疑問を感じた方は、いらっしゃいますでしょうか。

簡単に申しますと、仏さまの国・お浄土へ生まれ往くという意味です。

私というのは、先が見えないと不安になります。

自分の中の当たり前が通用しないと、戸惑います。

人生が思い通りにいかないと分かっていても、何かに頼って生きているのが私です。

私という人間は、どんなに有難いお話を聞いても、どんなに厳しい修行を重ねても、どこまでいっても自分勝手に、自分中心に物事を見てしまうのが人間の姿です。

子どもはワガママだと思うこともあるかもしれませんが、知識・知恵を身に付けた大人ほどワガママな存在はいないのではないでしょうか。

愚痴が出なかった日が何日あったでしょうか。

腹をたてなかった日が何日あったでしょうか。

そのことすら、他人に気づかれないよう隠してしまう。

そんな私ですので、自分ではどうしようもできない、理解できないことに直面したりすると、その原因を探し求め、都合の悪いことは全て何かに押しつけてしまうことがあります。

そして、先に往生され仏となられているはずの大切な方々にさえ、自分の迷いから責任を押し付けてしまうのです。

私は何を頼りに人生を生きているのか。

「そんな悲しい人生はない、そんな悲しい命はない、どうかしっかりと命を見つめてほしい、あなたもお浄土へと生まれ往く命をいただいているのですから」

と教えてくださるのが阿弥陀という仏さまであり、先に往生されたたくさんの先人たちではないでしょうか。

「往生するということは、仏とならせていただいた誕生日でもあるんだよ」

というお言葉を聞かせていただいたことがありました。

お盆とは、お一人お一人が、先に往生された方々を偲ばせていただくと同時に、私の本当の姿をお聞かせいただくご縁でもあるのではないでしょうか。

私にとっての誕生日は、お盆のお参りをされるたくさんの方々と、先にお浄土へ往生された、たくさんの仏さま方に出遇わせていただくことができる、数限りない仏さま・先人の命を通して、私の命の行く先を知らせていただく尊いご縁をいただいているのだと感じております。