ここで次の『正像末和讃』に注意してみます。
「南無阿弥陀仏の廻向の恩徳広大不思議にて往相廻向の利益には還相廻向に廻入せり」
「往相廻向の大慈より還相廻向の大悲をう如来の廻向なかりせば浄土の菩提はいかがせん」
この和讃は、
『二種廻向の功徳の一切が、一名号「南無阿弥陀仏」に成就されていて、その名号が私たちに廻向される。
したがって、衆生がこの阿弥陀仏の信楽を獲信する時、この衆生は必然的に往相廻向の利益を得、それ故に、自然に還相廻向に廻入せしめられるのである』
と語っています。
そしてこのことは、すでに示した
「弥陀の廻向成就して往相還相ふたつなり…」
の和讃の内容とも一致します。
こうして、如来の二種の廻向は、名号を通して衆生に来るのであり、衆生は真の意味でその名号に手遇う時、この衆生は如来の二種の廻向を完全に得ることになります。
阿弥陀仏は往相の
「教・行・信・証」
と還相の
「証」
を、同時に私たちに廻向されています。
したがって、この阿弥陀仏の信楽(大悲心)を私が獲信する時、私の心に
「教・行・信・証」
の一切が同時に開発されることは、極めて当然のことです。
けれども、それは獲信において初めて言えることだということに、私たちは特に注意する必要があります。
では、未信の衆生に対しては、この如来の二種の廻向はどのようなはたらきをするのでしょうか。
阿弥陀仏は、衆生を無上涅槃に至らしめるために、衆生を浄土に往生せしめ、再び穢土に還来せしめます。
そのために阿弥陀仏は、往相と還相という二種の廻向を、名号に成就して衆生に廻施されるのです。
ところが、それにもかかわらず、往相の廻向に
「教・行・信・証」
があると説かれ、しかもその上で、還相の廻向が示されます、なぜ、このような教示が必要なのでしょうか。
また、その意味するところは何なのでしょうか。
「往相廻向ととくことは弥陀の方便ときいたり悲願り信行えしむれば生死すなはちねはんなり」
「還相廻向ととくことは利他教化の果をえしめすなはち諸有に廻入して普賢の徳を修するなり」
の和讃に明らかなように、往相の廻向が説かれるのは、まさに未信の衆生に、悲願の信行を得さしめるためにほかなりません。
そのためには、どうしても教と行と信と証の教法が別々に示され、その各々のはたらきを通して、衆生を獲信に導く
「弥陀の方便」
がどうしても必要になったからです。
そうすると、未信の衆生にとっては、その弥陀廻向の教と行と信と証にどうかかわるかが、非常に重要な問題になります。
そのためには、すでに獲信したものの導きが、ここでどうしても必要になるのです。
還相の廻向が説かれているのは、教化地の果を得た菩薩の行道の何たるかを明かすためです。
なお、ここで注意すべきことは、往相の行者は
「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証」
して、即時に還相の菩薩になるのですから、この世における往相の正定聚の機と還相の菩薩が同一人であるということは、決してありえないということです。
未だ往生していないものが、還相の菩薩であるはずはありません。
したがって、ここで必要なことは、還相の菩薩がこの世で、どのような普賢の徳を修するかが明らかになることなのです。
そこで
「証巻」
の後半においては、この還相廻向の行道が説かれることになるのです。
さて、ここで次の問題が残りました。
1親鸞聖人は著述の上で、阿弥陀仏の二種の廻向と衆生のかかわりをどのように説いておられるか。
2阿弥陀仏の二種の廻向と衆生の獲信の問題と、そこに開かれる衆生の証果について。
3正定聚の機の行道とは(往相廻向の相が問われることになります)
4還相の菩薩の行道とは(この世における還相廻向の相が問われることになります)
これらが、以下の問題になります。