知的障がいのあるしゅう君は、
言葉でのコミュニケーションが苦手でした。
自分の思いを言葉でうまく伝えることができないので
うまくコミュニケーションが取れないと、
お友だちを噛んでしまうこともたびたびありました。
噛むこともまた、
「ぼくのことわかって!ぼくのこと聞いて!」としゅう君が思いを伝えていることなのですが・・。
年中組から幼稚園に入園してきたしゅう君なのですが、
どうしても、はじめのうちは、
「しゅう君は噛むから怖い」
とクラスの子どもたちの中で怖がられていました。
子どもたちの声を聞いたまわりの保護者の中からも
「しゅう君は噛む怖い子」
というレッテルが張られてしまいました。
でも
「しゅう君は噛むから怖い」
ということは、
一緒に生活をしていく中で、子どもたちの中からは
少しずつ消えていきました。
しゅう君は思いが伝わらないとやっぱり噛みます。
でも、なんでしゅう君は噛むのかを、
子どもたちがわかってきたのです。
年長組になり、卒園を間近に控えたある日、
子どもたちの何人かが、集まってしきりに話をしていました。
どうも話題は、しゅう君のことのようです。
また、しゅう君がお友だちを噛んでしまったのです。
噛まれたけんちゃんを真ん中にして、子どもたちが話し合っています。
「ぼくさっき、しゅう君に噛まれたんだけど、しゅう君僕に何を言いたかったのかなあ?」
「それはきっと、けんちゃんがしゅう君がよんでいるのに、気づかなかったからじゃない?」
「だよね、きっととそうだよね。しゅう君ごめんね・・・・」
噛んだしゅう君を責めるのではなく、どうしてわかってあげれなかったのかと
自分たちを問題にしている子どもたちの姿を見ながら
胸が熱くなりました。
別な日、たかし君のお母さんから手紙が来ました。
そのお母さん、園にたかしくんを迎えに来たとき、しゅう君が噛んでしまったのです。
その時に、けっしてきつくはなくですが、
「噛んだら駄目だよ」
としゅう君をしかったのです。
手紙の中には、こう書かれていました。
「たかしからおこられました。たかしは
『おかあさんはしゅう君をおこったでしょ。でもお母さんが悪いんだよ。しゅう君はお母さんを呼んでたのに、お母さんが気付かないからしゅう君は噛んだんだよ。なのにお母さんはしゅう君をしかったでしょ。ほんとに悪いのはお母さんなのに』
と教えてくれました。
噛むから悪い子と決めつけていた私の思い違いと、大人だという思い上がりを、子どもたちから教えてもらいました。
しゅう君や子どもたちに感謝の気持ちでいっぱいです。」
はじめは
「噛まれた」
と泣きながらも、
子どもたちはしゅう君に寄り添おうとしました。
嫌だからあっちに行けとも言えたはずなのに。
そばで一緒に生活しながら、わけもなく噛むのではなく
しゅう君にも思いがあるから、
ぼくたちわたしたちと
「一緒にいたい」
という思いがあるから噛むんだということがわかり、しゅう君の思いを一生懸命受け止めようとしたのです。
その子どもたちの姿に、
「ともに生きていこう」
という深い願いを見る思いがします。
子どもたちの中にある深い願いが、しゅう君の思いに寄り添いたいという姿となり
その姿が、大人のなかにある
「ともに生きよう」
という願いに響き、思い込みや思い上がり心を砕いて行ってくれたのでしょう。
いのちは願いを持っています。
「ともに生きたい」
という願を持っています。
その願いは、嫌なことや、つらいこと、しんどいことを超えて
共に生きていこうという歩みを、私たちにもたらしてくれます。
しゅう君、小学生になった今でも、言葉でのコミュニケーションは得意ではありません。
でも、噛むことはほとんどなくなりました。
きっと、しゅう君の願いと
まわりのお友だちや大人の人たちの願いとが響きあったからなんでしょうね。