「無量寿」
という言葉は、文字の上から窺うと
「寿命が限りなく続いていく」
という意味に理解することができます。
そうしますと、私たちは自分の人生が八十年とか、あるいは百年というような限られたものではなく、いつまでもいのちが限りなく続いていくことを思い浮かべます。
それを別の言葉で言い表すと、いわゆる
「不老長寿」
といったような受け止め方になるのではないでしょうか。
実際、現代の科学技術の力をもってすれば、肉体的な長生不死は理論的には既に実現可能なのだそうです。
具体的には、赤ちゃんときの細胞が一番増殖力が活発であることから、用いるのは生まれてすぐに亡くなった赤ちゃんの細胞ということになるのでしょうが、老化した細胞と赤ちゃんの細胞を次第に取り替えていけば、いつまでも若々しさを保つことができるようなのです。
けれども、はたして不老長寿とか長生不死とか、そういう意味での死なないということが、果たして人間として生きているということになるのかどうか、やはりこれは大きな問題だと思います。
「寿命」の「寿」という字には、「ことぶき」つまり「よろこぶ」という意味があります。
それは、「生きている」というときには、その「生きていること」に喜びが伴わなければ、生きていることにはならないということを物語っています。
私たちは、生きていることが苦しくて辛いと、
「死んでしまいたい」
と思ったりすることがありますが、それではたとえ息をしていても、本当に生きているとは言い難いのです。
仏教では、私たちの欲望をいろいろと説き明かしていますが、その一つに
「三愛」
ということがあります。
三愛の中の第一は「欲愛」です。
これは、いろいろなものや事柄に対する愛着です。
物質だけでなく、地位とか名誉とかにも対して持つ欲、これらをすべて
「欲愛」
という言葉で言い表します。
したがって、これは言い換えると
「所有欲」
だと言えます。
つまり、自分のものとして所有したい、自分のものにしたいという欲です。
この愛欲のもとには、自分が存在していることに対する欲、つまり、自分がいつまでも生き続けられるようにという欲があります。
これが、第二の「有愛」です。
これは、生存への欲、生存への愛着心です。
それと同時に、人間には第三に「非有愛」ということがあります。
「非有愛」というのは少し理解し辛いのですが、自分が存在しなくなることへの愛着で、自分がこの世に生き続けることを拒否したい欲です。
仏教では自殺ということを、この「非有愛」という言葉で押さえます。
自殺は、自己放棄ではないのです。
もし、自分を放棄したのであれば、死ぬ必要もありません。
ただ成り行きにまかせ、環境に流されて生きていけばよいのです。
けれども、自殺するということは、逆の自己主張です。
好ましくない今の状態に自分を追いこんでいるものや、そういう社会に対する抗議・怒りといったような、この世に対する否定の感情が、自分がこのままの境遇や状態で生き続けていくことを拒否するのです。
そのような意味で、自殺も自己愛なのです。
それは、人間には
「死ぬ」
という形で生きるということがあるということです。
虚しさとか苦しさのあまり、そのような自らの人生そのものを否定する。
そういう形で、自分を確保したいという心を持っているのが人間であり、それを仏教では
「非有愛」
と押さえているのです。
ですから、長生不死がそのまま人間としての喜びになるかというと、そうはなりません。
しかも、生きていることに喜びが伴わなければ、むしろ長生不死は苦痛になってしまいます。
まさに、死ねないということは苦痛なのです。
なぜなら、長生不死ということは終りがないということだからです。
私たちは、どんな苦しみにも終りがあるということで安堵する面がありますが、もしこの苦しみに終りがなくなれば、それはとても耐えられたものではありません。
実は、地獄こそが長生不死の世界なのです。
地獄は、限りなく苦痛を受け続ける世界としと説かれています。
ですから、長生不死とか不老長寿ということが、そのままただちに人間としての満足を生み出すのかというと、そこに生きていることの喜びを伴わなければ、けっして喜ばしいものとはならないのです。
考えてみますと、生きていることの喜びは、一人、つまり孤独では出てきません。
生きていることの喜びには、必ずそこに
「共に喜ぶ」
ということがあるはずです。
源信僧都は地獄について
「われいま帰るところなし。孤独にして無同伴なり」
と述べておられますが、これが苦悩のいちばん深い姿です。
そうすると、生きていることの喜びは、けっして孤独というところにはないということになります。
孤独を破って信じられる人間関係、あるいは社会との関係が開かれなければ、私のいのちがどれだけ長く続いたとしても、それは
「無量寿」
にはならないのです。
自分の周りの人が信じられ、そして心から語り合える人がいるとき、人はどんな悲しみにも耐えられますし、心から喜ぶことができるのだと思います。
また、どれほど嬉しいことがあったとしても、その喜びを共にしてくれる人がいなければ、むなしいだけです。
したがって、どれほど多の人びとからうらやましがられるようなことが起こったとしても、その喜びを一緒に、まるで自分のことのように喜んでくれる人がいなければ、寂しい思いをしたり、孤独であることを強く感じたりすることさえあります。
このような意味で、
「寿命」とは
「関わりとしてある」
ということなのです。
したがって、仏の寿命が無量だということは、その仏の上において言うのではなく、その仏によって生み出され人びとの上で仏のいのちは無量だということを意味しているのです。
つまり仏のいのちが無量だということは、仏のいのちが限りなく働いていくということにほかなりません。
本当に人間としてそのいのちを生きた人のいのちというものは、周りの人びとに時代を超え、地域や国境を超えて限りなく感動を与え、多くの人びとに生きる勇気を与えます。
そして、それによってその人の徳が受け継がれていくことになります。
ですから、仏の寿命が無量だということは、そのような限りなく人を生み出し、その生み出す働きに限りがないということなのです。
そして、おおくの人びとに生きる勇気を与え、生きる喜びを与え続けて、その働きの波及していくことに限りがないということです。
ですから
「無量寿仏」
という仏は、どこかにそのような仏がおられ、その仏がいつまでも生きておられるということを物語っているのではありません。
もしそれだけのことなら、私にとっては無関係です。
「無量寿」は慈悲を意味する言葉でもありまずか、仏がいつまでも生きておられるということから慈悲という意味を見出せません。
「無量寿」が慈悲だということの意味は、無量寿とは願の限りなさであり、その願とはこの私のために仏が起こされた願いであり、この私のために、私がその願いに目覚めるまで働きをやめることができない、そういう働きを感じたときに無量寿が慈悲として感じられるのです。
つまり、私の上に働いているものを感じなくては無量寿ではないのです。
そして少なくとも、いのちとは願いだということです。
まだ死なずにいるということと、生きているということの決定的な違いは、願いがあるかどうかということです。
一般に、何か願いを持って生きているときには、たとえ病床に臥していても、そのいのちは生き生きと働いているのです。
反対に、たとえ元気であっても、いのちをかけて願うべきものが全く見出せずにいるときは、そのいのちは本当に生きているとは言い難いのです。
ですから、そのいのちの内容は願いなのです。
そして、その願いが限りないということが、無量寿という言葉で讃えられている意味なのです。
このような意味で、いのちには限りない願いがあるのです。