青蓮院の門が見えた。
その門を潜(くぐ)る時、慈円はまた、ことばをくりかえして、
「もいちど叡山へもどったがよいぞ」
と、いった。
「はい」
範宴はそう答えるまでに自分でも心を決めていたらしく、
「明日、お暇(いとま)をいたしまする」
「うむ……」
慈円はうなずいて、木覆の音を房(ぼう)のほうへ運んで行った。
すると、房の式台の下にかがまって、手をついている出迎えの若僧があった。
慈円は、一瞥して、ずっと奥へはいってしまったが、つづいて範宴が上がろうとすると、若僧はふいに彼の法衣(ころも)の袂(たもと)をつかんで、
「兄上」
と、呼んだ。
思いがけないことであった。
それは性善坊と共に、先年、都に帰った弟の朝麿なのである。
常々、心がかりになっていたことでもあるし、この青蓮院へついてもまっ先にその後の消息をたずねたいと思っていたのでもあるが、まさか、髪を剃(お)ろして、ここにいるとは思わなかったし、師の慈円も、そんなことは少しも話に出さなかったので、彼は驚きの眼をみはったまま、
「おお……」
とはいいながらも、しばらく、弟の変わった姿に茫然(ぼうぜん)としていた。
朝麿はまた、兄の痩せ尖った顔に、眼を曇らせながら、
「――ここでお目にかかるも面目ない気がいたしますが、ご覧のとおり、ただ今では、僧正のお得度(とくど)をうけて、名も、尋(じん)有(ゆう)と改めておりまする。……どうか、その後のことは、ご安心くださいますように」
と、さしうつむいていった。
「そうか」
範宴は、大きな息をついて、うなずいた。
それで何か弟の安住が決まったように心がやすらぐと共に、もういっそう深刻な弟の気もちを察しているのでもあった。
「お養父(ちち)君(ぎみ)も、ご得心ですか?」
「わたくしのすべての罪をおゆるしくださいまして、今では、兄上と共に、仏の一弟子として、修行いたしておりまする」
「それはよかった……さだめしお養父君もご安心なされたであろう。おもとも、発心(ほっしん)いたしたうえは、懸命に、勉められい。精進一途(いちず)におのれを研(みが)いているうちには、必ず、仏天のおめぐみがあろう。惑わず、疑わずに……」
範宴は弟にむかって、そう諭(さと)したが、自分でも信念のない声だと思った。
しかし、尋(じん)有(ゆう)は素直であった。
兄のことばを身に沁み受けて、
「はい、きっと、懸命に修行いたしまする」
と、懺悔(さんげ)のいろをあらわしていうのだった。
あくる朝、範宴は、叡山(えいざん)の道をさして、飄然(ひょうぜん)と門を出た。
尋有の顔が、いつまでも、青蓮院の門のそばに立って見送っていた。
どこかで、やぶ鶯(うぐいす)のささ鳴きが、風のやむたびに聞えていた。