では、弥陀廻向の信楽を獲信する瞬間、この衆生の心に何が起こるのでしょうか。
それは、衆生がなぜ信心歓喜したかを見れば分かります。
名号を通して、自分がいま阿弥陀仏の大悲に摂取されたことの信知が歓喜にほかならないのです。
『末灯鈔』に
「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」
と説かれていますが、阿弥陀仏の大悲の中で、自分は正定聚に住し、必然的に仏果に至る身であることを知ったが故に、この衆生は歓喜地に至るとされるのです。
この正定聚の位は『無量寿経』の第十一願で
「阿弥陀仏の浄土の衆生は正定聚に住す」
と誓われています。
そこで、浄土教一般では、浄土に往生した衆生の位だととらえられていますが、親鸞聖人は信心を獲得した衆生は、阿弥陀仏の大悲に常に抱かれているのであるから、獲信の時、人は正定聚に住すと解釈されます。
たとえことの世が穢土のただ中であっても、阿弥陀仏の大悲に生かされている者は、まさに往相の行者であって、浄土に遊ぶ身に等しいのです。
それを「浄土に居す」と述べておられるのです。
では、この獲信の念仏者は、どのような行道を歩むのでしょうか。
「行巻」龍樹引文に「菩薩初地に入れば、諸の功徳の味はひを得るが故に、信力転増す。
この信力を以て、諸仏の功徳無量深妙なるを壽量してよく信受す。
この故にこの心また多なり、勝なり」と説かれています。
いったい「信」にはどのような力があり、どのような働きをするのでしょうか。
正定聚の機の特徴は、仏法の諸の功徳を味わうということです。
それは、信の力によるのであって、諸仏の無量深妙なる功徳をそのままに信受するため、正定聚の機には自ずから仏の功徳がますます多くなり、必然的に仏果に導かれることになります。
この念仏者の行道を親鸞聖人は「如実修行相応」ととらえられます。
この「如実修行相応」の語は、曇鸞大師が『論註』の讃嘆門釈で説かれるのですが、この語を親鸞聖人は「信巻」で、その讃嘆門の引文の他に、「信楽釈」と「信一念釈」の結びで、
「如実修行相応と名づく、是の故に論主建めに我一心と言へり」
「故に知んぬ、一心是れを如実修行相応と名づく」
と繰り返し引用されます。
では、親鸞聖人にとって「如実修行相応」とはどのような意味なのでしょうか。
『高僧和讃』の「曇鸞讃」で親鸞聖人は「決定の信をえざるゆへ信心不淳とのべたまふ如実修行相応は信心ひとつにさだめたり」と讃えておられますが、この中「如実修行相応」の語に、
「オシヘマゴトクシンズルココロナリ」
という註を付されます。
この場合の教えとは、第十八願の教法であることは言うまでもありません。
そして、この念仏往生の本願とそれを信じる人との関係について、『末灯鈔』で、本願に関しては
「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたる」
ととらえ、それを信じる人については、
「ちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきこと」
と述べておられます。
阿弥陀仏は本願に何を誓われているのでしょうか。
ひとことで言えば、「念仏せよ、救う」という勅命です。
なぜそれが阿弥陀仏にとっての唯一の救いの行になるのでしょうか。
救いの因の一切を至心信楽欲生の三心に成就し、それを南無阿弥陀仏の名号に施して、衆生に廻施しているからにほかなりません。
それ故にこそ、阿弥陀仏はただひたすら「念仏せよ」と衆生に勅命されるのです。
獲信とは、この本願の勅命を衆生がまさしく「教えの如く信じる」ことです。
このことから、阿弥陀仏の往相廻向の信と衆生の獲信の関係は、廻向の信は「念仏せよ」という勅命となって来たるのであり、獲信は、その教えのままに信じるのですから、獲信者の行はただ念仏のみの道を歩むことになります。
では、獲信者にとっての念仏行とは何なのでしょうか。
ここで正定聚の機の行道が問われます。
正定聚の機とは、明らかに知られているように、すでに往生が決定し、今ましさく往相している念仏者のことです。
したがって、この念仏者には自分自身にとっての往生のための念仏はありえません。
往生が定まっている者には、さらに往生を欲する心は必要がないからです。
では獲信者にどのような証果が開かれるのでしょうか。
ここでいま一度『正像末和讃』にみられる親鸞聖人の言葉
「他力の信をえんひとは仏恩報ぜんためにとて如来二種の廻向を十方にひとしくひろむべし」
が問題となります。
獲信の念仏者は、仏恩を報ずるために、如来の往還二廻向に、必然的に関わるとされるのですが、いったい、正定聚の機の証果にみる往相廻向の行とは何であり、還相の廻向の行とは何なのでしょうか。
この点が先に示した、欲生釈の『論註』引文で明かされているのです。
その往相廻向の証果については、
「往相とは、己が功徳をもって、一切衆生に廻施したまひて、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり」
と説かれます。
阿弥陀仏によって至心に廻向されている名号を真に獲得する時、念仏者はその獲得した一切の功徳を、未だ念仏の真実を信知していない衆生に施して、共に浄土に往生しようと願うといわれるのです。
ここに念仏の功徳をひたすらに讃嘆する、念仏者の報恩の行道がみられるのです。
ところで、この行道は、明らかに獲信者の往相廻向の証果であることから、『教行信証』においては「証巻」に説かれるべき内容です。
ところが「証巻」に明かされている行道は、その大半が還相の行であって、往相の行はほとんど説かれていません。
現実の私たちにとっては、往相の行こそ重要なのですが、それはいったいどこで明かされているのでしょうか。