親鸞・女人篇 時雨(しぐれ)の罪(つみ) 2014年2月25日

この春を迎えて、聖光院(しょうこういん)の門跡として移ってからちょうど三年目になる。

門跡という地位もあり、坊官や寺侍たちにも侍(かしず)かれる身となって、少僧都(しょうそうず)範(はん)宴(えん)の体は、おのずから以前のように自由なわけにはゆかなくなった。

時には省(かえり)みて、

(このごろは、ちと貴族のような)と聖光院のきらびやかな生活を面映(おもは)ゆくも思い、

(狎(な)れてはならぬ)と、美衣美食をおそれ、夜の具(もの)の温まるを懼(おそ)れ、経文(きょうもん)を口で誦(よ)むのをおそれ、美塔の中の木乃伊(ミイラ)となってしまうことを懼(おそ)れたが、門跡として見なければならぬ寺務もあり、官務もあり、人との接見もあり、自分の意見だけにうごかせない生活がいつの間にか彼の生活なのであった。

「お牛車(くるま)の用意ができました」木幡(こばた)民部(みんぶ)が手をついていう。

民部というのは、範宴が門跡としてきてから抱えられた坊官で、四十六、七の温良な人物だった。

範宴は、すでに外出の支度をして、春の光のよく透(とお)る居室の円座に、過多刃もののように衣紋(えもん)のよく立っている真新しい法衣(ころも)を着、数珠(じゅず)を手に、坐っていた。

こういう折、朝夕(ちょうせき)に見る姿でありながら、坊官や侍たちは、時に、はっとして、

(ああ、端麗な)思わず眼がすくむことがある。

実際、このごろの範宴は、ひところの苦行惨心に痩せ衰えていたころの彼とはちがって、下頬(しも)膨(ぶく)れにふっくらと肥え、やや中窪(なかくぼ)で後頭部の大きな円頂(あたま)は青々として智識美とでもいいたいような艶(つや)をたたえ、決して美男という相では在(おわ)さないが、眉は信念力を濃く描いて、鳳(ほう)眼(がん)はほそく、眸(ひとみ)は強くやさしく、唇(くち)は丹(に)を噛んでいるかのごとく朱(あか)い。

そして近ごろはめったに外出(そとで)もせぬせいか、皮膚は手の甲まで女性(にょしょう)のように白かった。

だが、ふとい鼻骨と、頑健な顎骨(がっこつ)が、あくまで男性的な強い線をひいていた。

肩は盤石(ばんじゃく)をのせてもめげないと思われるような幅ひろく斜角線をえがき、立てば、背は五尺五寸のうえに出よう、ことに喉(のんど)の甲状腺は生れたての嬰児(あかご)の、拳(こぶし)ほどもあるかと思われるほど大きい。

この端麗で、そして威のある姿が、朝の勤行(ごんぎょう)に、天井(てんじょう)のたかい伽藍(がらん)のなかに立つと、大きな本堂の空虚もいっぱいになって見えた。

口さがない末院の納所(なっしょ)僧(そう)などは、

「御門跡のあの立派さは、どうしても、童貞美というものだろうな」などと囁(ささや)き合った。

けれど、師の幼少から侍(かしず)いている性善坊は、どうしても、

「だんだん、母御前の吉光(きっこう)さまに生き写しだ」と思えてならない。

ただ、濃い眉、ふとい鼻ばしら、嬰児(あかご)の拳(こぶし)大もある喉(のんど)の男性(おとこ)の甲状(しる)腺(し)――それだけは母のものではない、強(し)いて血液の先をたずねれば、大(おお)曾(そう)祖父(そふ)源義家のあらわれかもしれない。

「では、参ろうかの」民部の迎えに、その姿が、今、円座を立って、聖光院の車寄せへ出て行った。

ちょうど松の内の七日である。

範宴は、網代(あじろ)牛車(ぐるま)を打たせて、青(しょう)蓮院(れんいん)の僧正のもとへ、これから初春(はる)の賀詞(がし)をのべにゆこうと思うのであった。