「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と声にだして称名念仏するという点ではどちらも同じだと言えますが、そのお念仏のとらえ方に違いがあります。
ご存じのとおり、親鸞さまは法然さまのお弟子のひとりです。
では、なぜ同じ念仏であるのに違いがあるのでしょうか?
法然さまは、念仏によってこの世で絶対の幸福に救われていく、という教えをたてられました。
これを『念仏為本(ねんぶついほん)』といって、念仏そのものによって救われると説かれました。
親鸞さまは、念仏さえ称えれば、どんな心で称えてもいいというものではなく、信心をもって念仏を称えることで救われていくと説かれました。
これを『信心為本(しんじんいほん)』といいます。
そうすると、両者の念仏には違いがあるようですが、次のような出来事のあったことが伝えられています。
あるとき親鸞さまが、一門の間に考え方の異なる者がいるので、それを確認してみたいと法然さまに進言されました。
つまり往生するのに「信=信心」が重要なのか、「行=念仏」が重要なのか、「信行両座」に分けて、いずれが重要なのか一門の人びとに問うてみたいというのです。
そして、親鸞さまをはじめ数名が「信」の座に着かれたのですが、大方はどちらに座ろうかと迷っていたところ、法然さまも「信」の座に着かれたということです。
そして、法然さまは次のようにいわれました。
「念仏しているからといって信心を得たとは限らない、しかし信心を得れば必ず念仏を伴う。
」
つまり法然さまがおっしゃる「念仏」というのは、後者の信心を得たことに伴う念仏なのです。
そうすると、法然さまも「単に念仏すればよい」とおっしゃっているわけではなく、究極的には信心が重要であるとする点については変わりありません。
そうすると、お二人の念仏には違いがなく、より正確には「親鸞さまが法然さまの教えを深められた」と言えるのではないかと思われます。