真宗講座 親鸞聖人の「往相と還相」還相の行道(3月中期)

第一の「智慧門」に関しては、

「進むを知りて退くを守るを智と曰ふ、空無我を知るを慧と曰ふ。

智に依るが故に自楽を求めず、慧に依るが故に我が心自身に貪著するを遠離せり」

と述べられます。

菩薩は、すでに智慧によって、何が真であり何が偽であるか、何が善であり何が悪であるかを知り、しかも自分が縁起的存在であることを覚知しています。

したがって、菩薩は自分にとっての功徳利益を得ることを一切求めず、自分の心に執着する心を滅しています。

第二の「慈悲門」については、

「苦を抜くを慈と曰ふ、薬を与ふるを悲と曰ふ。

慈に依るが故に一切衆生の苦を抜く、悲に依るが故に無安衆生心を遠離せり」

と示されます。

一切衆生の心から苦悩のすべてを除き、その一切衆生に真実の無限の喜びを与えるのが菩薩の慈悲の実践なのです。

第三の「方便門」は、

「正直を方と曰ふ、己を外にするを便と曰ふ。

正直に依るが故に一切衆生を憐愍する心を生ず。

己を外にするに依るが故に自身を供養し恭敬する心を遠離せり」

と解されます。

菩薩にとっての仏道は、自分自身の利養のためになされているのではなく、ただ苦悩する衆生を救うために、自らの一切が投げ出されているのです。

真如に即してて、迷える衆生を真如に導くために、まさにその衆生のために、その衆生の心に即した仏道が行じられることになります。

この仏道がまさしく菩薩の大慈悲の実践道なのであり、しかもその行道が、智慧と方便の成就によってなされているが故に、その実践はどこまでも真実だということになるのです。

さて、この菩薩の行道は、天親菩薩の『浄土論』と、それを註解する曇鸞大師の『浄土論註』に明かされている真理です。

親鸞聖人はこの教法を『教行信証』の「証巻」に引用されるのですが、『論・論註』と『教行信証』との間には、思想的に大きな変化がみられます。

それは『論・論註』における菩薩の実践行は、礼拝・讃嘆・作願・観察という自利の実践による智慧の成就と、廻向という利他の実践による慈悲の成就によって、まさに正定聚の位に至った菩薩の行道なのですが、これはどこまでも往相の菩薩の利他行だといわなければならないのです。

ところが、親鸞聖人はこの「往相の菩薩の利他行」を、教化地の菩薩の利他行の行道としてこの「証巻」に引用しておられます。

つまり親鸞聖人にとってこの思想は、「還相の菩薩の利他行」を明かす教えとなっているのです。

ではいったい、この還相の菩薩と五念門行はどのように関係するのでしょうか。

また、この還相の菩薩は、この世においていかに具体的に菩薩道を実践されることになるのでしょうか。

そしてその行道は、現実に生きるこの私と、どう関係することになるのでしょうか。

ここで「利他満足章」にみられる親鸞聖人の解釈が、非常に大きな意義を持ちます。

『論・論註』によれば、菩薩は身業・口業・意業・智業・方便智業の法門に随順することによって、五種の功徳力を得、阿弥陀仏の清浄の仏土に生じて、随意自在の業が成就するとされます。

そして身業とは礼拝であり、口業とは讃嘆であり、意業とは作願であり、智業とは観察であり、方便智業とは廻向だと説かれます。

こうして浄土に生まれた菩薩は、さらに漸次五種の功徳が成就するといわれます。

それが近門・大会衆門・宅門・薗林遊戯地門で、この五種の功徳が入出の次第の相を示現すると、次のように説かれます。

入相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。

謂く大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。

浄土に入り已るは、便ち如来の大会衆の数に入るなり。

衆の数に入り已りぬれば、まさに修行安心の宅に至るべし。

宅に入り已れば、まさに修行所居の屋寓に至るべし。

修行成就已りぬれば、まさに教化地に至るべし。

教化地は即ちこれ菩薩の自娯楽の地なり。

この故に出門を薗林遊戯地門と称すと。

これによれば、一般的に「五果門」と呼ばれている、この五つの功徳の行は、五念門行を修して浄土に生まれた菩薩が、浄土において漸次行なう「行」だということになります。

浄土において教化地の位を得るために、まず四種の「入の功徳」が成就され、これらの修行が成就し終わって、初めて教化地に至りえます。

これが菩薩の自娯楽の境地であって、苦悩の充満する穢土に直ちに出現して、あたかも薗林を遊戯するように、自由自在に迷える衆生を済度し続けます。

ここに第五の「出の功徳」が成就されている還相菩薩の相をみることができます。

けれども、親鸞聖人の思想においては、このような往相と還相の関係は成立しません。

なぜなら、親鸞教義では真実の信心を獲得した念仏の行者の往生は、往生のその瞬間に、教化地の菩薩になるとされているからで、したがって還相の菩薩行は往生と同時、その即の時に始まるとみなければならないのです。

いったい、親鸞聖人は「証巻」において、還相の菩薩行をどのようにとらえておられるのでしょうか。

「証巻」に引用されている『論註』の文は、すべて教化地の功徳を示す文となっていますから、親鸞聖人はこの教えをとおして、まさしく還相の菩薩の功徳を明かそうとしておられることが窺われます。

その還相の菩薩行の功徳とは、ここに論じた浄土の菩薩の「四種の正修行功徳」であり、「智慧・慈悲・方便」の菩薩行であり、さらには浄土における「五果門・五功徳」であることは言うまでもありません。