真宗講座 親鸞聖人の「往相と還相」還相の行道(3月後期)

では、この還相の菩薩が、この輪とどうかかわっていると親鸞聖人はみておられるのでしょうか。

次の文に注意してみます。

入第一門と言ふは、阿弥陀仏を礼拝して彼の国に生ぜしめむが為にするを以ての故に、安楽世界に生まるることを得しむ。

これを第一門と名づく。

仏を礼して仏国に生まれむと願ずるは、これ初めの功徳の相なり。

ここに、親鸞聖人独自の読み方が随所にみられます。

そこでこの解釈に、一般的な読み方を重ねてみますと、まず「阿弥陀仏を礼拝」以下は、「阿弥陀仏を礼拝したてまつり、彼の国に生ぜんし為すを以ての故に」となり、次の「安楽世界に生るることを得しむ」は、「安楽世界に生ずることを得」と、さらに「仏を礼して仏国に生まれむと願ずる」は、「仏を礼したてまつり、仏国に生ぜんと願ずる」と、一般的には読まれることになります。

そして、この一般的な読み方に従えば、この礼拝者は、まさに礼拝者自身が、浄土に生まれようと願っている行者であることは明らかです。

自らが阿弥陀仏の浄土への往生を願うが故に、阿弥陀仏を礼したてまつるのであり、このように礼拝したことによりいま浄土の近門に入ることを得たのです。

こうして、この功徳が入の第一門と名づけられるのですという理解の仕方になります。

ところが、親鸞聖人はこの文をそのようには解釈しておられません。

何故に礼拝するのか。

「彼の国に生ぜしめるため」であり、礼拝するが故に「安楽世界に生まれることを得しめる」のです。

そうすると、ここにみられる「礼拝」と「往生」の関係は、礼拝するものと往生するものは、同一人ではなくて、別個の者ということになります。

礼拝者が自らの往生を願って礼拝しているのではなく、他のもの、具体的には未だ往生が決定していない迷える衆生のために礼拝がなされているからです。

そして、その礼拝と往生の関係が「礼拝する」という一行為の中で語られているのです。

この親鸞聖人の「入第一門」の解釈は、何を意味しているのでしょうか。

本来は、礼拝という行為は自利の行です。

ところが親鸞聖人は、この自利の礼拝をそのまま利他行として、他の迷える衆生を阿弥陀仏の浄土に生じめる行とされ、しかもこの行為をこの世における現実の行道としてとらえておられます。

では、いったい、ここで礼拝しているのは誰なのでしょうか。

この礼拝が、現実の世における行為だとすれば、この世における衆生以外には考えられません。

より具体的にいえば、今まさに人間として生かされ、阿弥陀仏の法を聞いている私自身だといえます。

ところで、この私は、未だ真の意味で阿弥陀仏の浄土に生まれたいという願いは抱いてはいないとします。

そうすると、私には未だ真心をこめて一心に阿弥陀仏に向って礼拝しようとする心は生じていないはずです。

けれども、不思議なことにその私が阿弥陀仏に向って礼拝し、阿弥陀仏の名号を口に称えています。

なぜこのようなことが、私に可能になっているのでしょうか。

ここにおいて、親鸞聖人がとらえられた還相の菩薩の躍動の相が鮮明に浮かびあがってきます。

この現実の世で躍動している還相の菩薩と、その利他行によって浄土に往生することを得しめられる衆生との関係が、この文によって明確に導かれることになるからです。

還相の菩薩とはどのような菩薩でしょうか。

それは言うまでもなく、浄土にまします菩薩ではなく、浄土からこの穢土に還来して、今まさしくこの穢土のただ中において、迷える一切の衆生を浄土に往生せしめるべく、専一に利他の行道を実践している菩薩です。

そうすると、還相の菩薩は、この現実の世において、苦悩し迷う私たち衆生と、真実、深く関わっていなければなりません。

現在この世で人間として生を受けている私が、阿弥陀仏の実相を知り得ないにもかかわらず、念仏者として生かされ、阿弥陀仏を礼拝する日々を過ごしています。

この不可思議さこそ、これを可能ならしめる不可思議な力が、私に具体的に働きかけているのだとみなければなりません。

親鸞聖人自身、獲信の瞬間に、この還相菩薩の躍動の相を、如実にみられたのだと言えます。

親鸞聖人は、何故に獲信することができたのでしょうか。

この点を親鸞聖人は「信巻」別序で「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。

真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」と語っておられます。

真実の信心は、まさしく阿弥陀仏の廻向によって獲信されますが、その信心の真実が私の心に如実に知見されるのは、まさに釈迦仏の善巧方便によります。

いかに阿弥陀仏から信楽が廻向されたとしても、私たちにその真実が理解できる言葉で語りかけられなければ、弥陀法の真実は、実際には私たちに聞信することはできないのです。