では、親鸞聖人に弥陀の名号「南無阿弥陀仏」の真実を語ったのは誰なのでしょうか。
それは往相の念仏者、法然聖人であることは言うまでもありません。
未信の念仏者が、獲信に至ることができる道はただ一つであって、念仏の真実に出遇う以外に獲信には至り得ません。
そして念仏の真実、すなわち南無阿弥陀仏の教法に出遇うためには、善知識からその教えの真実を聞信する以外にはありません。
これまでみてきたように、すでに真実の信心を得た念仏者が、未信の衆生に南無阿弥陀仏の法門を説法するのであり、未信の念仏者がその教法をただ一心に聞法するのです。
この世の往相の念仏者が、未信の者に対して、彼と同一の次元で念仏の法を語ることによって、未信の者が初めて獲信に導かれるのです。
歴史的には、念仏の法門は釈尊によってこの世に伝達され、それ以後、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信僧都といった往相の念仏者によって伝承されることになるのです。
そして、親鸞聖人自身この歴史の流れの中で、二十九歳のとき法然聖人と出遇われ獲信せしめられたのです。
この法然聖人が、往相の念仏者であることは動かすことができません。
往相の念仏者であるが故に、直ちに親鸞聖人に念仏の法を説き、親鸞聖人を獲信に導かれたのです。
では、法然聖人の没後、往生された法然聖人は、親鸞聖人にとっていかなる存在だったのでしょうか。
この法然聖人を親鸞聖人は、決して過去の方としてとらえてはおられません。
法然聖人のお姿は、遥か彼方の阿弥陀仏の浄土に往生しておられるのではなく、今まさに現実の場で、還相の菩薩として親鸞聖人に利他行をなしておられると領解しておられるのです。
そうすると、法然聖人は親鸞聖人に対して、いかなる利他行をしておられるのでしょうか。
その利他の実践こそが、この「利行満足章」に示される「五念門行」になります。
まさしく還相の法然聖人は、親鸞聖人と共に阿弥陀仏に向って礼拝しておられるのです。
けれども、それは還相の法然聖人が、阿弥陀仏の浄土に往生するためではなく、親鸞聖人をしてまさに彼の国に生ぜしめんがために礼拝しておられるのです。
「讃嘆」もまた同じです。
親鸞聖人の念仏は、常に法然聖人の讃嘆に伴われており、法然聖人が親鸞聖人の念仏をして「名義に随順して如来の名を称せしめ」ているのです。
ここに「如来の光明智相に依りて修行せる」親鸞聖人の行道が開かれるのであり、親鸞聖人を「大会衆の数に入ることを得」しめる法然聖人の躍動がみられます。
愚かな凡夫には「一心に専念し、作願」する心は存在しません。
その「奢摩他寂静三昧の行を修する」ことが可能なのは、彼の浄土に生まれることによってです。
それ故に、浄土を願う親鸞聖人の心に重なって、還相の法然聖人が「一心に専念し、作願して」、親鸞聖人を「蓮華蔵世界に入ることを得しめ」ているのです。
このようにして、親鸞聖人の日常は信心歓喜の日々となります。
その歓喜の生活は、法然聖人の「観察」によって、親鸞聖人が「種種の法味の楽を受用」せしめられているからに他なりません。
親鸞聖人自身の獲信において、このような還相の菩薩の躍動が信知せしめられたのです。
では、この礼拝・讃嘆・作願・観察の入の四門と、出第五門の廻向とは、どのような関係に置かれるのでしょうか。
『浄土論』当面に説かれる、五念門・五功徳の行道からみれば、自利の行である入の四門が先であり、出の第五門が最後であることは明らかです。
けれども、親鸞聖人の還相廻向釈では、この論考のように入の第四門そのものが「他」を浄土に入らしめる利他行と解されています。
そうすると「生死の薗の煩悩の林の中に廻入して、神通に遊戯し」ている還相廻向の菩薩にとっては、まさにその薗林で遊戯している行為こそ「入第四門の行」となります。
「出第五門」の行の内実が、「入第四門」の行道だと親鸞聖人は説かれていることになるのです。
このようにみれば、親鸞聖人は還相の菩薩の躍動の相を、この世における現実の行道としてとらえておられることが明らかになります。
けれどもそれは、決して現に生きる私自身の行道としてみられている訳ではありません。
同様に、この世に生を受けている他の誰かを還相の菩薩だと見ておられるのでもありません。
この世における一切は、煩悩具足の凡夫であって、そのような中には誰一人として還相の菩薩ではありません。
しかし、今の私にとって親鸞聖人は過去の人ではありません。
確かに歴史の上では、既に亡くなっておられますが、まさに還相の菩薩として、この私の心に生き生きと躍動し続けておられます。
もしこのように領解することができるとすれとどうでしょうか。
私が阿弥陀仏に合掌し礼拝する時、私と共に合掌し礼拝してくださる親鸞聖人のお姿を見ることが出来ます。
このような意味で、私の礼拝は親鸞聖人によってなさしめられているのだと言えます。
なぜ私が念仏を称え、その生の喜びを感じることができるのでしょうか。
それは、南無阿弥陀仏が親鸞聖人の讃嘆の行として称せしめられているからです。
親鸞聖人は往生された法然聖人に、生涯、還相の菩薩として心から感謝しておられました。
けれどもそれは何も法然聖人お一人ということではありません。
往相の行者である七高僧のすべてが、まさに親鸞聖人においては還相の菩薩とし領解されていたのであり、この真実が「還相廻向釈」で語られていると窺えます。
そうだとすれば、私の一声の念仏は、親鸞聖人の讃嘆に加えて、無数の還相の菩薩の利他行に導かれているとのだ言えます。
さらに言えば、もし父や母が浄土にましますのであれば、『歎異抄』の「神通方便力をもて、まづ有縁を度すべきなり」の言葉よりして、なによりもまず、私の往生を願って、私と共に礼拝し讃嘆し作願し観察しておられる父母、あるいは有縁の人びとの還相の姿を、私たちはこの中に見いだすことになります。