真宗講座親鸞聖人に見る「往相と還相」(4月中期)

むすび

浄土真宗の教法は、「教巻」の冒頭に示されていように、阿弥陀仏の往相・還相の二種の廻向がそのすべてです。

これを衆生の側からみると『文類聚鈔』に語られているように、「若しは往若しは還、一事として如来清浄の願心の廻向成就したまふところに非ざること有ることなし」となります。

念仏の衆生にとって、浄土に生まれる往相の行道も、浄土に生まれ還相の菩薩となってこの穢土に再び還来する行道も、その一切が阿弥陀仏の二種の廻向によるのです。

そこで、今日の真宗研究における「二種廻向論」は、その大半が阿弥陀仏の廻向論となり、私を往生せしめ還来せしめる阿弥陀仏の廻向の意義が中心的課題として問われています。

二種廻向の一切が、阿弥陀仏の願力による以上、浄土真宗の廻向論は阿弥陀仏の廻向義が解明されれば、それがすべてだといってもあるいは誤りではないかもしれません。

けれども、阿弥陀仏の廻向義の真理がいかに解明されたとしても、ただそれだけで、この義が客観的に論じられるだけなら、この阿弥陀仏の廻向論は静的に留まってしまいます。

ここにいる私は、阿弥陀仏に廻向されて、やがて浄土に往生し、それから還相の菩薩となって再びこの世に還来してくる姿が、ただ描写的に眺められているだけにすぎません。

たとえ信心が語られたとしても、その信は、ただ有り難さを歓喜することで終わってしまいます。

そこで、この静的な信心理解が今日厳しく批判され、行道としての信の主体性が強調されているように窺えます。

そして、それが阿弥陀仏の廻向を獲信した信心の行者自体が、還相の菩薩として論じられるようになったのだと思われます。

しかし、未だ浄土に生まれていないこの世における凡夫の還相の菩薩道など絶対にありえません。

いったい、これらの論理のどこに問題があるのでしょうか。

それは、正定聚の機の往相の行道がほとんど問われていないところに最大の問題があるように思われます。

そしてそれは、往相の行道は「自利」だという錯覚に陥っていることによると言えます。

確かに親鸞聖人の廻向論は、阿弥陀仏の二種の廻向を根源に置いておられます。

けれども、親鸞聖人は自らの獲信と離して、その弥陀の廻向を語っておられるのではありません。

常に、今時の自身の心に重ねて、その廻向を問うておられるのです。

阿弥陀仏の二種の廻向に、自分自身がいかに関わっているか。

その自らの行道こそが、親鸞聖人にとっての最大の関心事であったのです。

したがって『教行信証』にみる、行・信・証の根本問題は、阿弥陀仏の二種廻向と、それを獲信した衆生の往相と還相の廻向行であったと考えられます。

獲信を中心に、阿弥陀仏の二種廻向と衆生との関係を窺ってみますと、獲信の時をはさんで、それ以前とそれ以後の衆生と如来の二種廻向の関係が問題になります。

獲信以後の衆生は、正定聚に住することになります。

そのため、この衆生は往生の証果をすでに獲得しています。

したがって、その人は自らの往生を願う心はもはや必要としていません。

この人の往相の行は、自分自身の往生のための行ではなく、未信の衆生に対する行です。

阿弥陀仏の二種廻向の功徳を讃嘆し、その衆生と共に往生しようとしている真の大菩薩道なのです。

「行巻」では、この往相の利他行が「浄土真実の行・選択本願の行」として説かれているのです。

したがって、ここに見られる念仏の行者は、獲信以後の正定聚の機の念仏者だということになります。

これに対して「信巻」は、未信の衆生がいかにして獲信するか、その獲信の時におる行道が問われています。

この点、これはある意味で第二十願から第十八願への転入の問題であるともいえます。

ただし、この転入は、念仏者自身の努力だけでは絶対に起り得ません。

第二十願の自利を求める自力の念仏道は、その究極において、ただ破綻する道しかないからで、苦悩のどん底で絶望の中にある者は、この時点では阿弥陀仏の本願との真の出遇いは完全に断ち切られているのです。

ただし、この絶望の淵に沈む者は、絶望したが故に自らが往生を求めようとする自力心もまた、そこでは完全に消えています。

このような場で、もしこの衆生に正定聚の機に出遇う機縁が熟したとすればどうでしょうか。

この時、たまたま善知識がこの人に、阿弥陀仏の大悲の真理を説法するのです。

ここに初めて、説法者と聞法者との真の出遇いが成り立つことになります。

正定聚の機の説法によって、迷える自分を救うために、私の心に来たっている他力の信を初めて信知するのです。

これが「聞其名号信心歓喜」という獲信の瞬間です。

そして、この苦悩する人に対する利他行が「行巻」に明かされる正定聚の機の行道なのです。