このように「行巻」の正定聚の機の説法が、「信巻」においては、阿弥陀仏の勅命として未信の衆生に聴聞され、その衆生が獲信して正定聚の機になることが示されます。
ここに「行巻」と「信巻」の関係を見ることができますが、ではこの正定聚の機にとって、還相の菩薩はどう関係するのでしょうか。
浄土真宗にみる衆生往生の構造を客観的に眺めると、衆生が如来の二種廻向の法を獲信し、現生で正定聚に住し、臨終の一念に浄土に往生し、還相の菩薩となって再びこの穢土に還来するというような図式を描くことができます。
したがって、この中に自分を置けば、私はやがて往生しそれから還来するのだと、往相も還相も私にとっては未来の問題になります。
殊に還相は、往相後の問題ですから、遥か彼方の自分の未来の姿にしか映りません。
このような現実の場で、私の「信」が問われれば、如来の二種廻向の有り難さをただ歓喜するのみということになります。
ところが、親鸞聖人の思想には、このような静的な信のとらえ方はみられません。
親鸞聖人にとって往生は、このように客観的に眺められる問題ではなかったからです。
衆生の一切は無常です。
したがって、私たちの生の一瞬一瞬は、常に臨終的生でしかありません。
私の実存は、この世における現在の今のこの場という時点のみです。
親鸞聖人は、この今という場に佇む、この瞬間における自分の往生を問題にしておられます。
だからこそ、親鸞聖人においては、往生の決定は今でなければならず、正定聚もまた現生でなければならなかったのです。
私の生の一瞬一瞬が、常に臨終の一念の場です。
この自覚に生きる者の行道には、自力の入り込む余地はありません。
今この瞬間のこの場での悟りを求めようとするなら、それを自分の力で成就することは、何人にも不可能だからです。
親鸞聖人の完全なる自力の否定は、このような求道の中から生まれ、法然聖人と出遇われ「如来の二種廻向」を獲得されたのです。
そして獲信以後の親鸞聖人行道は、ただ念仏を喜ぶ往相の利他行のみであったといえます。
では、この親鸞聖人にとって還相の菩薩道とは何だったのでしょうか。
阿弥陀仏は、往還二種の功徳を同時に衆生に廻向しておられます。
それ故に、衆生はその名号を獲得する時、その瞬間に正定聚に住します。
この衆生は、往相の廻向を得るが故に、必然的に往相するのです。
その往相の行道は、名号を讃嘆して他の衆生を浄土に往生せしめる利他行としてあります。
ところでこの衆生は、還相廻向の功徳をも同時に得ているが故に、浄土に往生すれば直ちに還相の菩薩となってこの穢土に還来し、教化地の菩薩道を行ずることになります。
とはいえ、実際にはこの衆生は未だ穢土における凡夫です。
だとすれば、現生の正定聚の機には還相の菩薩道をなすことはできません。
ただし、浄土に往生した一切の菩薩は、如来の還相廻向を得ているが故に、この現世において無限の行道をなしているはずです。
この点を親鸞聖人は、浄土の菩薩が今のこの親鸞に阿弥陀仏を礼拝せしめ、名号を称えせしめ、浄土を願わしめ、そして本願を信ぜしめているのだと領解されます。
還相の菩薩が、今まさに浄土から来たって、親鸞聖人を浄土に往生せしめるために躍動し続けておられるのだと見られます。
このように、親鸞聖人は還相の菩薩を自分自身の未来の姿ではなく、今この親鸞に来たる還相の菩薩を、単に還相の菩薩一般として抽象的に見るのではなく、非常に具体的に、すでに往生された法然聖人、さらには善導大師や他の浄土教の高僧方に還相の菩薩の躍動する姿を感じ取っておられるのです。
阿弥陀仏の二種廻向は、一声の念仏「南無阿弥陀仏」にその功徳の一切が円満に成就され、衆生に廻施されています。
衆生はその法を獲信することによって往生は決定します。
そうすると、未信の衆生にとって必要なことは、ただ念仏のみです。
にもかかわらず、なぜこの衆生に対してなされる善知識の具体的な利他行や、この私にふれあうことのできる暖かい還相の菩薩の躍動が必要なのでしょうか。
それは、利他行がなくては、未信の衆生は名号と真に出遇うことはありえないからです。
したがって、親鸞聖人における「信」の世界は、その一切が二種の廻向の中で、常に仏果に向かって動的に働き続けているといえます。
阿弥陀仏の大悲心、獲信の念仏者の利他行、還相の菩薩の信の躍動、これらの「信」の動態によって、未信の衆生が獲信に至ります。
そして、その信もまた極めて動的なものです。
このような意味で、私たちの仏道とは、常に主体的で動的な信の念仏道でなければならないのです。