親鸞・女人篇 2014年3月13日

尋有は、眼をうるませて、

「あのうちに、師の御房の和歌の御弟子(みでし)、花山院の若君がいらっしゃいます」

「お、通(みち)種(たね)卿(きょう)もおいでか」

「その他(ほか)の方々も、兄上にお目にかかって、ご相談いたしたい儀があると仰せられますが、おもどり下さいませんか」

「そうか」

範宴は考えていたが、

「お会いいたそう」

「お会いくださいますか」

尋有はよろこんで先に立った。

客殿の人々は、

「聖光院の範宴御房じゃ」

と、ささやきあって、愁いの眉に、かすかな力づよさを持った。

「時に、ご承知でもあろうが」

と花山院の通(みち)種(たね)や、弟子の静(じょう)厳(ごん)や、僧正の知己たちは、範宴を、膝でとりまいて、声をひそめた。

「――困ったことになりました。なんとか、貴僧に、よいお考えはあるまいか」

と、言う。

僧正の例の問題である。

一首の和歌が、こんなに、険悪な輿論(よろん)を起こそうとは思わないので、僧正はじめ、僧正に親しい人々もわらって抛(ほ)っておいたところが、その後、問題は、禁中ばかりでなく、五山の僧のあいだにも起って、慈円放逐(ほうちく)の問責(もんせき)がだんだん火の手をあげてきた。

そして、

(青(しょう)蓮院(れんいん)を放逐せよ)とか、はなはだしいのは、

(遠流(おんる)にせよ)などという排撃のことばをかざして、庁に迫る者など、仏者のあいだや、官のあいだを、潜行的に運動してまわる策士があるし、朝廷でも、放任しておけない状態になったというのである。

で――いちど僧正を参内させ、御簾(ぎょれん)の前にすえて、諸卿列席で糾問(きゅうもん)をした上、その答えによって、審議を下してはどうかというので、この間うちから、青蓮院へ向って、たびたび、お召しの使いが立っている。

ところが、僧正は、

(古今、詩歌に罪を問われたる例(ためし)なし、また、詩歌のこころは、俗輩の審議に向って、説明はなし難し)と、いって、参内の召しに、応じようともしないのである。

再三の使者に、しまいには、頑然と首を振って、

「慈円は、病で臥しております」

といって、居室に、籠ってしまった。

前(さき)の関白兼(かね)実(ざね)の実弟にあたる僧正として、この不快、不合理な問題に対して、それくらいな態度を示したのは当然であり、歌人の見識としても、はなはだもっともなことなのであるが、そのために、朝廷の心証はいっそう悪くなって、

「さらば、不問のまま、遠流の議を奏聞すべし」

という声が高まってきた。

月輪兼実が、朝(ちょう)廟(びょう)にあって、関白の実権をにぎっている時代なら、当然、こんなことは起こらないのであるが、その月輪公は、両三年前に、すでに官をひいて、禅閤(ぜんこう)ととなえ、今では隠棲しているので、それに代って、朝(ちょう)に立った政(せい)閥(ばつ)と、それを繞(めぐ)る僧官とが結んで、弟の慈円僧正をも、青蓮院から追い出して、自党の僧で、その後にすわろうという謀(たく)らみなのでもあった。

「すてておいては、僧正の罪を大きくするばかりです。範宴御房、師の君に代って、貴僧が、御所へ参って、申し開きをして下さるわけにはゆきませんか」

※「禅閤(ぜんこう)」=摂政や関白などで在家のまま剃髪した者。