親鸞・女人篇 2014年3月16日

事件は複雑だ、裏と表がある。

問題となった和歌などはむしろ排撃派の表面の旗にしかすぎない、僧正があってはとかく思うままに振舞えない僧門の一派や、月輪兼(かね)実(ざね)が隠棲したこの機(しお)に、旧勢力を一掃して、完全に自分たちの門閥(もんばつ)で朝廷の実権を占めようとする新任の関白藤(ふじ)原(わらの)基通(もとみち)や鷹司(たかつかさ)右大臣などの意志がかなり微妙に作用しているものと見て大差ない。

したがって、この事件に対して、範宴には範宴の観察と批判があった。

大体、彼は僧正の態度に、賛同していた、僧正の覚悟のほどにも、さもあることと共鳴していた。

自分が叡山(えいざん)の大衆に威嚇され嘲罵(ちょうば)されても、その学説は曲げ得られないように、もし僧正が、堂上たちの陰険な小策に怯(お)じて、歌人としての態度を屈したら、詩に対する冒涜(ぼうとく)であり、また僧正自身の人格をも同時に捨てて踏みつけることになる。

で範宴は、師の房が、遠流(おんる)になろうとも、あくまで正義を歪(ま)げないようにと心にいのり、今も、暗黙のうちに、師弟の心がまえを固めてきたところであるが、こうして、慈円の弟子や知己や、和歌の友人たちが、一室のうちに憂いの眉をひそめたり嘆息をもらして胸を傷(いた)めあっている状(さま)を見ると、あわれにも思い、また師の老齢な体なども思われて、むげに、自己の考えを主張する気にもなれなかった。

「おすがりいたします、範宴御房、この場合、あなたのお力に頼むよりほかに、一同にも、思案はないのでございます」

花山院の公(きん)達(だち)もいうし、静(じょう)厳(ごん)もいうし、他の人々もすべて同じ意見だった。

範宴はやむなく、

「さあ、私の力で、及ぶや否やわかりませんが、ご一同の誠意(まごころ)を負って、師の御坊に代って参内してみましょう」

と答えた。

ちょうど、その翌る日にも、冷泉(れいぜい)大納言から、慈円に病を押しても参内せよという督促の使者が来た。

弟子の静厳から、

「先日もお答えいたした通り、僧正は病中にござりますが、もし、法弟の範宴少(しょう)僧都(そうず)でよろしければ、いつでも、参内いたさせますが」

と代人を願った。

使者が、折返して、

「代人にても、苦しゅうないとの朝命です」といってきた。

そして、日と時刻とを、約して行った。

その日は、寒々と、春の小雨が光っていた。

身を浄めて、範宴は、参朝した。

御所の門廊をふかく進んで、

「聖光院門跡範宴少僧都、師の僧正のいたつきのため、召しを拝して、代りにまかり出でました」

取次の上達部(かんだちべ)は、

「お待ち候え」と、殿上へかくれた。

初めて、御所の禁苑まで同候した範宴は、神ながらの清浄(しょうじょう)と森厳な気に打たれながら、また一面に、いかにして今日の使命をまっとうするか、僧正の名を辱(はずかし)めまいかと、ひそかに、心を弓のごとく張っていた。