僧正は待っていた。
いつもながら明快で、元気である。
訪れた範宴の顔を見ると、
「よう来てくれた。実はちと頼みおきたいことがあって」
と、人を遠退(とおざ)けた。
「何事でございますか」
範宴は、何となく、青蓮院のうちに、静中の動とでもいうような波躁(なみさわ)ぎを感じながら師の眉を見た。
「ほかではないが、ことによると、わしはしばらく遠地へ参るようになるかもしれぬ。で、留守中のことども、何分、頼みおきたい」
「突然なことをうけたまわります……して何地(いずち)へ?」
「何地へともまだわからぬが、行くことは確からしい。いつ参るともさしつかえないように、これに、いろいろ覚え書をいたしておいた。後の始末、頼むはおもとよりほかにない」
と書付を一通、手筐(てばこ)のうちから出して、範宴のまえにおいた。
「かしこまりました」
何も問わずに、範宴はそれを襟に秘めた。
そして、
「さだめない人の世にござりますれば、仰せのよう、いつお旅立ちあろうも知れず、いつ不慮のお移りあろうも知れず、とにかく、おあずかり申しておきます、どうぞ、いかなる時もお心やすくおわされませ」
といった。
「うむ」
慈円は、自分の心を、鏡にかけて見てとるように覚(さと)っている範宴のことばに、満足した。
「たのむぞ」
「はい。しかしお心ひろく」
「案じるな、わしは、身の在るところに娯(たのし)み得る人間じゃよ、風流の余徳というもの。――いや、風流の罪か、ははは」
玄関のほうには、しきりと、訪客の声や、取次の跫音(あしおと)が客殿との間をかよう。
範宴は、長座(ながい)を憚(はばか)って、師の居室(いま)を辞した。
そして、廻廊をさがってくると、
「兄上」みると弟の尋(じん)有(ゆう)だった。
尋有は、憂いにみちた顔をしていた。
いつもながら病身の弱々しさと、善良え細かい神経につかれている眸(ひとみ)である。
「――もうお帰りですか」
「うむ、近ごろ体は」
「大丈夫です」
「それはよい、真心をあげて、御仏(みほとけ)にすがり、僧正につかえよ」
「はい。……あの、ただいま、師の御房から、どんなお話がありましたか」
「おまえも、心配しているの」
「お案じ申さずにはおられません。わたくしのみでなく、ほかの弟子一統も、お昵懇(ちかづき)の人々も、みな、客殿につめかけて、あのように、毎日、協議しておりますが……」
弟のことばに、ふと、そこから院の西の屋(おく)を見やると、なるほど、僧正の身寄りだの、和歌の友だの、僧俗雑多な客が二十人以上も、通夜のように暗い顔をして、ひそひそと語らっているのが遠く見えた。