その時、忘れません。
七十五、六になる熱心な有り難いじいちゃんでした。
私が京都へお坊さんになりに行くときに、
「えらい坊さんにならんでもええよ。後ろから手合わせて拝んでもらえる有り難い坊さんになってくれよ」
って言うてくれたじいちゃん。
そのじいちゃんが中に入ってきて、私をつかんで「ご院さんきなはれ」と引っ張ってくれた。
逃げるに逃げられんかった、動くに動けんかった私。
その助けを借りてなんとか動けた。
後堂の一番奥へ連れて行かれて
「ご院さん、よう辛抱してくれはりましたな。これでこそうちのご院さんや。よう辛抱してくれはりましたな」
言うて、ひょっと見たら目に涙をいっぱいためて私を拝んでるんですよ。
「やっぱりうちのご院さんやった。よう辛抱してくれはった。ご院さんがここで怒ってたら、何もかもおしまいやった。よう辛抱してくれはった」
言うて拝み、そして私の胸にしがみつくんよ。
その時檀家何百人おるかしらんけど、たった一人でも私を拝んでくれる檀家のじいちゃんがおったいうことで、救われましたね。
「このじいちゃんのためにも辛抱せないかんのや。この寺を守らないかんのや」
という思いが出ました。
たった笑顔一つですよ。
私の人生変わりました、それから。
人間ちゅうのは、なんでもない小さなことでもいい、たった一つこれだけは守り通そう、やり通そうというもんがあると人生変わりますよ。
ちょっと飛躍しますけど「なんまんだぶつ」がそれなんよ。
どんな意味があるのか、どんな深い訳があるのか、どんな理屈があるのか、そんなこと抜きなん。
たった一言「なんまんだぶつ」。
それが私のすべてを変えてくれるんですよ。
いつも言いますように、念仏は凡夫のための教えである、仏教すべての教えが「なんまんだぶつ」一つに集約されているんです。
念仏一つですべてが解決するんです。
そして、念仏こそが、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたみ、こころおおくひまなくして、ろくでもないことばっかり出てくるこの私を救わんがための教えなんですよ。
私が救われるのはそれしかないんです。
その念仏が私に働いてくださる。
「有り難いこっちゃ」
いうことを、このごろ、特に病気をしてみて思いました。
一生懸命信じたから助かるんやないよ。
役に立たん身が役に立つんじゃないよ。
その役に立たん身が、生かされてる喜びを体じゅうで感じとることができるんです。
こんなすばらしい教えはないですね。