私のお預かりしておりますお寺の境内地には、大きなイチョウの木があります。
ご門徒さんが植えてくださった大切な記念樹です。
子どもの頃は、その大きな枝に紐をくくりつけてブランコみたいにして遊んだり、木登りをして遊んでいました。
このイチョウの木も植えられてから80年近くが経ちました。
今、改めて見上げてみると子どもの時とは比べ物にならないくらい本当に大きく成長したことを実感します。
以前、久しぶりに県外から帰ってきたご門徒の方がお寺にお参りされた時、「私が小さい時は境内を走り回ったり、このイチョウの木に登ったりして遊んでいたんですよ」と、懐かしそうにイチョウを触っておられました。
その姿を見ると、なにかほっとするものがありました。
以前境内にあった幼稚園もいまは無くなり、お墓も納骨堂にかわりました。
昔と比べると、だいぶ風景も変わりました。
そのなかでもイチョウの木は80年前から変わらず存在しているのです。
数年前に納骨堂を建設することになり、境内地の一部を地盤調査も兼ねて掘ることになりました。
イチョウの木からはだいぶ離れたところだったのですが、そこにもイチョウの根っこがはりめぐらされていました。
「こんなに離れたところにまでも…」と思うくらい広範囲に根っこがはりめぐらされていたことに、驚きを感じたことでした。
その時ふと「花を支える枝枝を支える幹幹を支える根根は見えねんだなぁ」という相田みつをさんの言葉が思い出されました。
日頃は鳥がとまって休んだり、子どもたちの登り木として、また暑い日には日陰を作ってくれたり、秋には黄色の絨毯で人々の心を和ませてくれているイチョウの木。
当たり前の風景のように思っていましたが、実はその葉・枝・幹を、見えないところで根っこがしっかりとがっちりと支えてくれていたのでした。
私たちは表の部分だけをみて全てを判断しがちなものですが、その表の部分というのは、実はその裏に見えない多くのはたらきがあってこそ成り立っているのだということを忘れてはならないと思います。
そうすると、私が今こうして命をいただいているのも、あたりまえではないのです。
多くのいのちをいただき、多くの方々のお陰により、そして自然界のさまざまな恵みのお陰によって生かされているのです。
私たちの体は、自分で作ったものは1つもありません。
目も鼻も耳もすべてが自分でつくったものはないのです。
それをいつのまにか自分のものと思っているのではないでしょうか。
寝ているときも、自分の意思をこえて心臓は動いてくれて、私を生かしめてくれています。
生きていることを「当たり前」と思っているこのいのちも、実はいつ死んでも当たり前のいのちなのです。
いつ死んでもおかしくないこのいのちが、今ここに生かされていると気づかせていただくときに、多くのことに「お陰様で」と頭がさがってくるのではないでしょうか。
一般に、仏法は「ありがたい話を聞く」ものと思われがちですが、その本質は「今こうして生かされているありがたい事実を聞かせていただく」ことにあると言えます。